"漫画の神様"手塚治虫、休載の時もファンにお詫びの漫画を描いていたーー凄すぎるサービス伝説
■手塚治虫はファンには常に神対応 11月3日は“漫画の神様”こと手塚治虫の誕生日である。手塚が神と言われるのは、亡くなるまで漫画界の一線で活躍し続けたこと、そして生涯にわたって15万枚ともいわれる膨大な量の原稿を描いたこと、日本のストーリー漫画の文法を確立し、後世に影響を与えたこと……など、様々な理由がある。 手塚治虫の初期名作『魔法屋敷』 手塚はファンサービスも“神”対応であった。サイン会は頻繁に開催していたし、サインの際は丁寧なイラストを描き添えることも多かった。「手塚治虫ファンクラブ」が開催するファンとの交流イベントにも出席し、意見交換なども積極的に行った。一方で、編集者にとっては締め切り破りの常習犯で困った面も多かったようだが、少なくともファンにとっては神そのものだった。 手塚は、漫画を描く以外にも講演会の講師を依頼されたり、漫画賞の審査員を依頼されたりと多忙だった。また、単行本を出版する際に、描きおろしや描き直しの作業を行うこともあった。『ブラック・ジャック』などの連載中には海外に行く用事があったし、体調不良に見舞われたこともあった。そのため、何度か連載を休んだこともある。 そんなとき、手塚は丁寧にお詫びのカットを描き下ろすことが多かった。また、回復した際も読者にお礼を述べる漫画を描くなど、こうしたファンサービスの旺盛さはいかにも手塚らしいエピソードだ。また、最晩年の漫画『グリンゴ』は手術や入院を繰り返しながらの執筆となったが、休載のお詫びとしてエッセイ漫画を4ページも描き下ろしている。 ■漫画家が休みをとりやすい環境になった さて、『グリンゴ』の連載中、手塚は癌を患っていた。そして、物語がいよいよクライマックスに差し掛かったころに手塚が亡くなったため、同作は未完の絶筆になってしまった。まさに漫画家は命を削りながら漫画を描いているといえ、手塚の死因を“過労死”だと言っている人もいた。 手塚が現役だった時代、漫画家は連載を休むことなど決して許されない、といった空気感があった。今では漫画界の働き方改革も進み、定期的に漫画家に休みを取らせる編集部・出版社も増えたと聞く。手塚は1989年に亡くなったが、今年は没後35年の節目にあたる年だった。その間、漫画家が休載しやすい環境になったことは大きな時代の変化と言っていいだろう。
元城健