著者である医師・作家の久坂部羊さん

老いればさまざまな面で、肉体的および機能的な劣化が進みます。目が見えにくくなり、耳が遠くなり、もの忘れがひどくなり、人の名前が出てこなくなり、指示代名詞ばかり口にするようになり、動きがノロくなって、鈍くさくなり、力がなくなり、ヨタヨタするようになります。 【写真】「うつによる仮性認知症」と「本来の認知症」の見分け方 世の中にはそれを肯定する言説や情報があふれていますが、果たしてそのような絵空事で安心していてよいのでしょうか。 医師として多くの高齢者に接してきた著者が、上手に楽に老いている人、下手に苦しく老いている人を見てきた経験から、初体験の「老い」を失敗しない方法について語ります。 *本記事は、久坂部羊『人はどう老いるのか』(講談社現代新書)を抜粋、編集したものです。

徘徊高齢者はまるで風

写真:現代ビジネス

徘徊の症状のある高齢者の危険は、転倒ばかりではありません。行方不明もあります。 帰りのバスに利用者を誘導するとき、ロビーで順番を待ってもらいますが、「ここで待っててね」と大声で言い、「座っててよ。動いたらだめですよ」と念を押し、相手も「ハイ、ハイ」としっかりうなずくのに、右を見て左を見るともうどこかに消えています。 目の届かないところに行かれると危ないので、職員たちは緊急配備で行方不明者をさがさなければなりません。ようやく見つけると、「オシッコに行きたくなったから」「鞄を忘れたから」「友だちのようすを見に行ったから」と、それぞれに理由を言うのですが、だったらさっきの「ハイ、ハイ」は何よと泣きたくなります。 Hさん(82歳)は小柄な女性で、背筋もしゃんと伸び、表情もまともなので、一見ふつうに見えますが、HDS-Rの点数はゴルフでいうローシングル(つまり5点以下)で、認知症としては重度でした。ですが、脚だけは若者以上に元気なのです。 このHさんが本格的に行方不明になったことがありました。昼休みに職員が診察室に駆け込んできて、「Hさんがいません」と青い顔で言いました。昼食後に時代劇のビデオを流して、利用者さんの椅子をビデオの前に並べて見せていて、Hさんもはじめはその中にいたそうです。ところがいつの間にか消えていたので、デイケアルーム内をさがしたけれど、見当たらないので部屋の外に出た可能性が高いといいます。しかし、部屋の扉の前では看護師が座っていますし、扉には開け閉めのときに鳴るよう鈴が取り付けてあります。この鈴はこれまでもプチ行方不明を繰り返していたHさんが部屋から出ていったらわかるように取り付けたものです。 「看護師は部屋を出たのに気づかなかったの」 「気づきません」 「扉を開けたとき鈴は鳴らなかった」 「鳴ってません」 「だったらデイケアルームにいるんじゃないの」 悪い予感が走りました。部屋から出ずに行方不明ということは、掃除道具を入れた引き戸に入り込んで出られなくなったか、あるいはベランダに出て転落したのではないか。しかし、職員は「もちろんどちらも見ました」と言います。 それならやはりデイケアルームを抜け出したのか。しかし、二階のほかの部屋も一階の診察室、受付ロビー、薬局、リハビリルームのどこをさがしても、Hさんはいませんでした。 しばらくすると、玄関の自動扉が開いて、万一の可能性を考え、クリニックの外へさがしに出た看護師が「Hさん、いました！」と、本人の手を引いて入ってきました。 やれやれでしたが、聞くとHさんはクリニックを出たあと、坂道を下って、下のバス停近くまで行っていたそうです。完全に行方不明になる一歩手前での発見で、転倒や交通事故の可能性を考えると背筋がゾッとしました。 それにしても、Hさんがクリニックの外に出るには、デイケアルームの看護師の前を通り、重い扉を開け(あまりにそうっと開けたので、鈴は鳴らなかったようです)、階段で一階に下り、受付ロビーを抜け、玄関の自動扉を通過しなければならないのに、その間、だれにも気づかれず通り過ぎたのです。 「まるで風ですね」 看護師長がほっとしながらも、あきれたようにつぶやきました。 さらに連載記事<じつは「65歳以上高齢者」の「6~7人に一人」が「うつ」になっているという「衝撃的な事実」>では、高齢者がうつになりやすい理由と、その症状について詳しく解説しています。