最上義光が築いた「組織風土」と最上騒動
■一代で急拡大させた名将最上義光 最上義光(もがみよしあき)は、伊達(だて)家の影響下にあった最上家を、現在の山形エリアを支配下に治めるまでに成長させた東北の梟雄(きょうゆう)というイメージがあります。 義光は外交や調略を駆使して、周辺の勢力へ巧みに対応し、本拠の最上郡すら支配できていない状況から、出羽山形57万石の大大名にまで急成長させています。その後も江戸幕府の元で最上家は安泰かと思われていましたが、義光の死後8年で最上家は改易されてしまいます。 これは義光が作ったとも言える最上家の「組織風土」が大きく関係していると思われます。 ■「組織風土」とは? 「組織風土」とは辞書等によると「組織に集まった個人個人の価値観が集まり平均化され、表面化したその組織の価値観」とされています。 組織が年数を重ね巨大化していくと、その中だけの独自ルールや価値観、行動様式などが生まれます。それを組織風土または企業風土と呼びます。組織風土を構成しているのは、組織の構造や人事制度など明文化されたものだけではなく、目に見えない慣例や習慣、価値観なども重要な構成要素です。 現在では成長を停滞させたり、危機に追い込んだりした場合によく使われる言葉でもあります。義光が領地を急激に拡大していく中、最上家にも独自の「組織風土」のようなものが根付いていきました。 ■最上家の事績 最上家は足利家の支流である斯波(しば)家の分家が、出羽国最上郡を本拠としたのが始まりと言われています。室町幕府から屋形号を許されるなど、出羽地域で勢力を拡大したものの、米沢の伊達家との争いに敗れ、出羽での影響力を弱体化させます。 父義守(よしもり)の時代に勢力回復の兆しを見せ、義光が天正最上の乱などの内部抗争を経て家督を継ぐと、急速に支配領域を拡大させます。外交や婚姻関係で勢力を拡大させる一方で、調略を駆使して敵対勢力を傘下に収め、庄内地方を除いた現在の山形県の範囲を支配下に置きます。 伊達家や上杉家との抗争を続けながら、徳川家康を通じて豊臣政権と誼(よしみ)を結び、1590年の小田原征伐に参陣し、出羽山形24万石の本領安堵を得ます。1600年の関ヶ原の戦いでは家康に加担し、上杉家と慶長出羽合戦と言われる戦いを評価されて、庄内地方を含めた57万石を領しました。 ■一門や重臣の発言力が強い「組織風土」 義光は最上家の勢力を拡大する際に、戦闘よりも外交や婚姻に加えて、調略を重視していたようです。里見民部(さとみみんぶ)や鮭延秀綱(さけのべひでつな)、東根景佐(ひがしねかげより)、延沢満延(のべさわみつのぶ)などを調略により、陣営に引き入れていました。 その見返りとして、里見家に17,000石、鮭延家に11,500石、東根家に12,000石、延沢家に20,000石と大名並みの所領を与えています。 また、自身の男子を有力な家へ養子に出して、これらにも大領を与えていました。三男の清水義親(しみずよしちか)に27,000石、四男山野辺義忠(やまのべよしただ)に19,300石、五男上野山義直(かみのやまよしなお)に21,000石、六男大山光隆(おおやまあきたか)に27,000石、甥の松根光広(まつねあきひろ)にも12,000石を領させています。 これは戦国時代では勢力拡大のためによく取られる手法ですが、後に山形藩の中央集権化を妨げる大きな要因となります。 また豊臣家との関係性が強い長男義康(よしやす)を、やや強引な形で廃し、家督は家康に近い次男家親(いえちか)に譲ります。これにより、家督の継承は正嫡に拘らないという前例を作ってしまいます。 そして、義光の死後、最上家は幕府の仲裁をも受け入れないほどに激しい御家騒動を起こすことになります。