満州で終戦、中国共産党軍の兵に銃を突き付けられ「私は子ども」「どうか助けて」…中国語で命乞い
満州(現・中国東北部)に渡り、終戦を迎えた北九州市八幡西区の山本好昭さん(93)は、現地で見た光景を色鉛筆で描いて手作りした絵本で戦争の悲惨さを後世に残そうとしている。表現したのは、ソ連軍の侵攻などで苦難の日々を余儀なくされた日本人の姿。「亡くなった人たちの無念の思いを伝えたい」と話す。 【イラスト】博多港に引き揚げてきた様子を描いた山本さんの絵
福岡県直方市で生まれた山本さんは1936年2月、南満州鉄道(満鉄)に勤める父を頼って母らと満州に渡った。当時5歳。主要都市だった奉天(現・瀋陽)などで暮らしたが、しばらくして弟と母は病気で亡くなった。
軍事教練に励んでいた旧制中学3年の時に終戦を迎えた。「国に尽くすことばかり教えられていたのに。これからどうすればいいのか……」。むなしさと不安な気持ちに駆られた。
終戦後は壮絶な日々が待ち受けていた。直前に侵攻してきたソ連の兵士や暴徒化した中国人らが民家を襲い、女性は暴行された。自身も、後ろ手に縛られた日本兵の死体をいくつも目にした。
45年9月18日のことは、今も鮮明に覚えている。山本さんは八路軍と呼ばれた中国共産党軍の兵士に捕まり、胸元に銃を突き付けられた。知る限りの中国語で「私は子ども。どうか助けて……」と必死に命乞いをすると、「仕方ない」と解放された。「中国語が話せていなかったら引き金を引かれ、生きていなかった」
船舶で日本に引き揚げることができたのは翌46年6月。博多港が見えた時には「やっと日本に帰れる」と喜びが込み上げたが、満州で命を落とした親しい人たちの姿が目に浮かんだ。
体験を絵本にしようと思い立ったのは、約20年前、大学生だった孫娘の「日本とアメリカが戦争していたのを知らなかった」という一言に驚いたからだ。孫世代に伝えていかなければという思いで、記憶をたどりながら24色の色鉛筆で描き進めた。
同様に満州で過ごした妻・寿美子さん(93)の協力で10年前、52枚の絵と解説を付けて冊子「絵で綴る自分史 15歳の証言」にまとめ、地元の図書館などに寄贈した。