家康は豊臣家をどう打ち破ったか?財力に勝る敵を負かすマネー術、最期のプロジェクト「大坂攻め」
きっと彼の側室たちもふたたび利殖に励み、損失を補填した上でさらに利益を積み重ねていったことだろう。いずれにしても、駿府城本丸には2度の造営で3000億円以上が注ぎ込まれたのではないだろうか。
猿にしてやられた狸
一方の秀頼である。彼は寺社の再興・修理にどれほどのマネーを注ぎ込んだのだろうか。 その総額はとてもじゃないけど把握できないのだが、一番有名な「方広寺大仏殿の再建」については、秀吉の遺産の分銅金(太閤分銅金)という大判1000枚分を分銅の形に鋳たものを家康が米と引き換えに受け取り、それを江戸の金座で大判に吹き直させた、という記録がある。分銅金は小判にすれば1万両、20億円の価値があるはずなのだが、実際に吹き直させてみると1000枚に34~5枚足りなかったらしい(『当代記』)。 3.5%ほどサバを呼んでいたあたり、亡き秀吉も子供のようだ。家康が大判金1000枚分というのを信じて米に換えたとすればまんまとしてやられたわけで、「死せる秀吉、生ける家康からぼったくる」となった次第。ともかく、おそらく作業員に配って食べさせる米の確保だけで1回20億円近いお金が必要だったのだから、2年足らずの工期でトータルいくらがかかったか、想像するだけで恐ろしい。 これだけで駿府城本丸工事に匹敵するぐらいのお金がかかったのではないか。それでも豊臣家の金蔵は軽くならない。 「こうなったら徹底的に大坂城への入金ルートを塞いでしまえ」 家康は、慶長14年(1609年)、諸国に灰吹銀および筋金吹分の禁止を触れ出した(『上杉編年文書』)。灰吹銀とは鉱石の銀をいったん銅に溶け込ませたうえで銀を抽出する精錬方法で作られた銀のこと。そして筋金吹分とは鉱石から金銀を抽出する精錬作業そのものを言う。つまり、銀の自由な精錬作業と、それによって作られた銀の所持・使用を禁じたという事になる。 幕府の直接支配下にないマイナーな銀山について精錬を禁止し、大名が大坂で米取り引きなどを銀決済できないようにしてしまえば豊臣家に銀が流れ込むことも無いというわけだ。そのうえ海外貿易の決済に使われる銀が精錬できなければ、銀山を持つ大名は貿易にも参加できない。一石二鳥の政策だった。 「これだけやれば、大坂城に入る新たな金銀は先細るはずだわ。寺社仏閣の再建や修理で城内の金銀は出て行く一方だでな」とほくそえむ家康。だが、そうはいかなかったのは前述の通りだ。 その財力の源泉として秀吉が各地の金銀山から集めた運上や、全国規模の流通操作で得た利益がその中心となっていたはずだが、それだけではない。秀頼には、なにより大坂というドデカイ「金のなる木」が残っていた。