オルテガが警告した「大衆の反逆」は日本では起こらないのか、それともすでに始まっているのか?
悪意ある扇動者の出現
彼らが穏やかになったのは、その後の経済発展だけが理由ではなく、政府そのものが大衆化したからかもしれない。オルテガによれば、社会は常に「少数者と大衆のダイナミックな統一体」から構成されている。 少数者は「進んで困難と義務を負わんとする人々」、大衆は「生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続」であり、「自己完成への努力をしない人々」である。どんな体制でも前者が後者をリードしなければ社会は機能しない。 しかしその役割を果たす責任ある少数者が、今の日本にいるだろうか。民主主義の仕組の下で、大衆には強力な武器、すなわち選挙での投票権がある。与党は選挙で敗ければ下野せねばならないから、大衆の要求を受け入れて支持を繋ぎとめようと必死に努力する。 昔は反対が強くても信念を曲げなかった総理大臣がいた。高級官僚にも頑固なエリートくさい人がいた。最近では安倍元総理にもそうした気骨が見られた。しかし岸田総理は大衆の要求を次々に受け入れる、あくまで大衆に「寄り添う」総理大臣なのである。 福島第一原発の処理水放出は開始したものの、風評被害を恐れる漁民の声に配慮し「たとえ今後数十年の長期にわたろうとも、全責任を持って対応する」と約束した。ガソリン価格の高騰を受け、補助金支払いの期限を延長した。 少子化を反転させ人口減少を食い止める、賃上げ、経済成長、脱炭素社会、防衛力強化を実現する。なんでも約束してくれるなら、大衆は自分たちが反逆する必要を感じない。 政府の大衆懐柔の仕方は、駄々をこねる子供にさらに欲しいものを与える親のようである。オルテガのことばを借りれば、「慢心しきったお坊ちゃん」をさらに肥満させ増長させるに等しい。大衆はそれに甘えて、自分で考えない、行動を起こさない。 こうした傾向は、政府をも無責任にする。約束が守れなくても、財源がないと言い訳をすればなんとかなる。与野党を問わず、責任を取らない政治家と彼らのスキャンダルばかり追いかけるメディア自身が、大衆の一員でしかない。 一方政治家の指示に従った官僚は、自身の責任を感じない。大衆も無責任。政府も無責任。本当の危機が到来した時に、反逆し戦う勇気と力が誰にもなかったら、この優しい大衆の国は果たして生き永らえうるだろうか。 「強くて優しい大衆」と、「独り立ちしない無害な大衆」は違うはずだ。甘やかされた大衆とそれに媚びる政府のなれあいは、この国を脆弱にしないか。オルテガが警告した「大衆の反逆」が、悪意ある扇動者の出現によってかえって起こりはしないか。心配である。
阿川尚之(慶應義塾大学名誉教授、著述家)