『何てったってアイドル』は"大人の悪ふざけ"…その進化の過程をひも解いた『小泉今日子の音楽』
アイドルとして活動をスタートさせた小泉今日子が徐々にその才能を開花させ、覚醒していく様子を、その「音楽」からひも解いた『小泉今日子の音楽』(辰巳出版)が刊行された。著者は音楽評論家で放送作家のチャッピー加藤氏。’82年3月のデビュー曲『私の16才』から’90年代末までのシングル曲38枚・アルバム21枚を通して小泉の”変化”を追っている。そんなチャッピー氏に、改めて話を聞いた。アイドル・小泉今日子とは? 【見たことない!】すごい…「聖子ちゃんカット」だったデビュー当時のキョンキョン ◆髪をショートにしてしまった理由 「彼女は僕が高校1年生のときにデビューしています。同期には中森明菜さんや早見優さん、石川秀美さん、堀ちえみさんらがいる、いわゆる”花の82年組”。デビューした時の彼女は単にその中の1人という印象でした。でも、デビューして1年経つときになぜか、それまで聖子ちゃんカットだった髪をバッサリ切っちゃって。ブリブリの衣装とは合っていなくて、それが面白いなとは思っていました」(チャッピー加藤氏、以下同) 突然髪を切ったのにはどんな理由や意味があったのだろう? 「小泉さんはデビュー当初、やれと言われたことを一所懸命にやってみたけど、アイドルの自分と等身大の自分とのズレにだんだん違和感を覚えるようになったんです。与えられた曲が描く女の子像に全く共感できず、『え~、普通、女の子ってこんなこと思わないんだけどな』と感じてしまう。髪型もそうでした。それで当時憧れていたショートカットにしてしまったんです。小泉さんは『デビューして最初の1年は記憶がない。私じゃなかったから』ってよく言っています。『もうダメだ!』ってなっちゃったんですね。 髪を切ったのは、ある意味『もう少し自然な感じにプロデュースしてくれませんか?』っていう小泉さんの提案だったとも思うんです。ただ、所属事務所もそれに対しては柔軟な対応で『切ってしまったものは、もう仕方ない。この髪型を活かす方向で』となりました」 ◆普通のアイドルと”どこか違う”アイドル そんな小泉の急な変化を世間はどう捉えていたのだろうか? 「僕の高校のクラスでは、中森明菜派と小泉今日子派に分かれるほどの人気でした。2人とも当時の当たり前のアイドル像と”何か違うアイドル”という印象でした。明菜さんは歌を極める方に行き、小泉さんはファッション等を含めて何か新しいアイドル像を作ろうとしていた。ベクトルは違っても、2人に共通するところは2人とも”在りたい自分”を持っていたということです」 しかし、主体性があるからといって、すんなり”在りたい自分”でいられるはずもない。そんな2人には、サポートする理解者がそれぞれにいた。小泉の場合、それがビクターでの2人目の担当ディレクター・田村充義氏だった。田村氏は、面白いこと、変わったことをやってやろう!というタイプ。そして田村氏は、普段の小泉の様子を見ている中で、彼女のある才能を見出してもいた。 「田村さんは小泉さんに作詞を勧めたんです。映画やドラマの話をしていても、小泉さんは筋道立てて面白く話すので『この子は、詞が書ける!』って思ったそうです。『そんなことできない!イヤだ!』って断っていた小泉さんを、田村さんはなんとか促して”美夏夜(みかよ)”名義で詞を書かせます。それがアルバム『Flapper』(’85年7月)に収録された『Someday』です」 『艶姿ナミダ娘』(’83年11月)や『ヤマトナデシコ七変化』(’84年9月)など、キャッチーな言葉のセンスとメロディで人気も得ていた小泉は自ら作詞にも挑戦しながらも、一方ではちゃんとアイドルでもあった。しかし同時期に、アイドル業界……いや芸能界全体に激震が走る出来事があった。おニャン子クラブの登場だ。 秋元康氏の手により、’85年4月、フジテレビ系列で”放課後の部活感覚”がコンセプトの番組『夕やけニャンニャン』の放送が始まる。既存のアイドルとは全く違う、身近にいる”素人”のおニャン子達が歌う『セーラー服を脱がさないで』(’85年7月)が発売されると、爆発的なヒットを記録。それはもう社会現象といって良いほどのものだった。 ◆「ものすごく脅威に感じた」 「松田聖子さんと、同期の明菜さんがトップグループを走っていて、その後を追う小泉さんサイドの戦略としては欽ちゃんの”良い子悪い子普通の子”でいうと、王道の聖子さんが”良い子”、不良っぽい明菜さんが”悪い子”だとすると、小泉さんはそのどちらでもない、多数派である”普通の子”のカッコ良さを追求していったんです。 そんな中、『セーラー服を脱がさないで』は、本物の”普通の子”である素人の女子高生達が明るくHについて歌っている。そこで発揮されている素人っぽさは確かに面白く、当時の男子高校生や男子大学生への訴求力は抜群だった。田村さんは、『ものすごく脅威に感じた』と語っています」 この路線では勝てないと感じた田村氏は秋元康氏に詞を依頼する。もちろん秋元氏はおニャン子の生みの親で、”ライバル”だ。しかし、同時期にとんねるずの曲を秋元氏と一緒に作っていた田村氏からすれば、面白いものを作る同志でもあった。そこで秋元氏が書いた”アイドルの真実”を全肯定する詞から生まれた曲が『なんてったってアイドル』(’85年11月)だ。その内容は《アイドルってビジネスとして品行方正を演じているのであって、付き合っている彼氏もいませんなんて幻想ですけど……》というような、当時のステレオタイプのアイドル像をぶち壊すような、相当にブッチャケた内容になっている。 「秋元さんは、面白いと思いながら書いたけれど、事務所からNGが出ると思っていたそうです。商売している側が、ファンに内情をバラしているようなものですからね。実際、事務所の社長は猛反対したそうですが、周りのスタッフが《この詞じゃなきゃダメなんです!》と、なんとか説得したんです」 おニャン子へのカウンターとなる作品を、という田村氏の目論見は当たり『なんてったってアイドル』は大ヒットした。小泉今日子と言えば、まずこの曲を思い浮かべるという人間は多いだろう。 「世間では”アイドルを変えた曲”とよく取り上げられます。でも、当の小泉さんは、『なんてったってアイドル』について《大人が悪ふざけしてるって思って、歌うのがイヤだった》とよく語っています。でも、同時に《この歌を歌えるのは自分しかいない! という自負は、当時からあった》とも言います。要するに、時代の要請みたいなものは感じていた。あえて”悪ふざけしている大人”との共犯関係を選んだんです」 “大人の悪ふざけ”にも乗ってみせる……、小泉のプロのアイドルとしての矜持を感じるエピソードだ。 「小泉さんは口には出しませんけど、おニャン子達に、対抗心は持っていたと思いますよ。『遊び感覚でレコードを出して、1位を獲って、それで良いの?』って。その素人っぽさがコンセプトとはいえ、スキルやプロ意識がない、と内心思っていたんじゃないでしょうか。だから”プロのアイドル”の意地を見せたんです」 ◆「何がスゴかったのか分からない」 その後の小泉はますますアイドルの枠を超え、作家性を発揮し始める。自身の楽曲について次第にセルフプロデュース色を強めていくようになり、作詞を始めて6年目にリリースした『あなたに会えてよかった』(’91年5月)では、ついにレコード大賞作詩賞を受賞するまでになった。それは様々な人と出会い、仕事をする中で刺激を受けたり、スキルを磨いていた結果でもある。音楽シーンではいつしか”小泉今日子と仕事をすることがステイタス”になっていたそうだ。 そんな小泉今日子の音楽は現在においても評価されるべき楽曲なのだが、そのことについてチャッピー氏は最近衝撃を受けたことがあったのだと語る。 「平成生まれの歌謡曲好きな女性から、『明菜さんが圧倒的に歌が上手いのは分かるし、聖子ちゃんがスゴイのも分かる。でも小泉さんが何がスゴかったのかが、よく分からない』って言われたんです。それは小泉さんが新たに切り拓いてきた道が、今ではスタンダードになっているからなんです。だから『何が新しいの?』ってなるのでしょう。アイドル然としていないアイドルなんて、今はいっぱいいますしね。 だから僕は小泉さんについて、その楽曲が生まれるに至った流れや背景を知って欲しいんです。とくにアイドル時代の作品について音楽的に詳しく解説した本はほとんどありませんでした。今は、過去に発表された全曲がいつでも聴ける時代です。若い世代の方々にも、ぜひこの本を片手に小泉さんの曲を聴いてもらいたいですね」 『小泉今日子の音楽』(チャッピー加藤・著/辰巳出版)
FRIDAYデジタル