永野芽郁に誰もがからかわれる 『からかい上手の高木さん』を成立させた“感情を秘する”芝居
作品を成立させる永野芽郁の“感情を秘するパフォーマンス”
ほのぼのとした日常の中で繰り広げられる男女の会話や、グラスに注いだ炭酸のように弾ける高木さんの笑顔から、私たちは西片に向けた彼女の好意を読み取るだろう。しかしそれは基本的に憶測に過ぎず、どこにも明示されはしない。観客は最後の最後まで、微笑ましく、やきもきさせられながら見つめ続けるしかないのだ。 「好意」というものを他者に伝える難しさは、誰もが知っていることなのではないだろうか。この気持ちを正確に伝えるためには、それなりにはっきりとした言動をしなければならない。つまりこれを演技で表現することは、思い切って言ってしまえば難しいことではないだろう。もちろん、上手いか下手かは別としてだ。自分の感情の形をそのまま提示することは難しくはない。では、こういった感情を隠すことはどうだろうか。気持ちを押し殺すのには大きな負担がかかるが、無理ではないだろう。 しかし、『からかい上手の高木さん』における永野の場合はこのどちらとも異なる。高木さんは西片に対して自身の感情を秘しながら、その成り行きを見つめる私たちにはそれとなく提示しなければならない。だからといって、感情の形をそのまま観客に触れられてしまっては、劇映画としてのスリルや驚きが完全に失われてしまう。登場人物たちの心の機微を繊細に描いた脚本や丁寧な演出により積み上げられていくものがこの状況を生み出しているのはもちろんだが、誰がどのように演じるのかが重要である。感情を秘する永野芽郁のパフォーマンスこそが、この映画を成立させている最大のカギなのではないだろうか。
折田侑駿