両腕で歩くミャンマーの牧師と合気道開祖の「最後の内弟子」 Vol.21
まさに「地獄」の様相を呈している――2021年に発生した軍部によるクーデター以降、ミャンマーでは軍事政権の国軍(ミャンマー軍)と、軍事組織としてのKNLAを有するKNU(カレン民族同盟)やカチン州、シャン州、カヤ州などの武装勢力が組織した反政府(反軍事政権)の連合的武装組織PDFの戦闘が激化している。今年に入り、軍事政権はついに18歳以上の国民を徴兵するとまで発表した。 2024年現在、ミャンマーに向けられる視線は「反民主的な軍事政権VS民主化を求めるレジスタンス的武装勢力」の構図一色に塗りつぶされているが、はたしてクーデターが発生する前のミャンマー、そのディテールに目を向けていた者がどれほどいただろうか。 本連載は、今では顧みられることもなくなったいくつかの出来事と、ふたつの腕で身体を引きずるように歩くカレン族の牧師を支えた日本人武道家を紹介するささやかな記録である。
米軍警務隊
本間を雇用するにあたって設けられた合気道の練習場は、大きな体育館内の一角に設けられた。畳が50枚ほども敷き詰められていたが、当初参加した者は数名であった。それも兵士だけではなく、兵士の妻や米軍基地の職員もいた。それでも3カ月ほどすると、20名以上に増えた。増えたのは、主に情報士官だった。 三沢基地は現在も対北朝鮮、対中国、対ロシアの情報収集前線基地としての役割を果たしているが、70年前の東西冷戦時代には、対ソ連の米軍極東レーダー基地として重要な役割を果たしていた。従って基地内での情報士官の割合も多く、道場に通ってくる生徒も大半が情報士官であり、中国やソ連、北朝鮮などのラジオ放送や無線を24時間体制で傍受する仕事をし、語学に堪能な軍人達であった。 米兵達に合気道を指導するのが本間の本来の仕事であったが、次第に米軍基地の機密漏洩対策の仕事も手伝うようになった。生徒の殆どが情報関係の将校や兵士であったことがその要因である。 当時、基地周辺には若い米兵目当てのバーがいくつかあった。本間がチンピラを投げ飛ばしたあの場所である。酔っぱらって良い気分になった米兵達が、バーで仲良くなった店の女を基地内の宿舎にこっそり連れ込む事態が頻発し、女が帰る際に宿舎の中にある米軍関係情報を密かに持ち出しするという事件が起こるようになったのだ。 当時、ソ連のKGB(秘密情報機関)のスパイがアメリカや日本などで暗躍していたが、彼らに操られた夜の女たちだったのか。そんな米兵達の不用意な夜遊びを取り締まるため、米軍警務隊(MP)が出動するとき、日本(人)側の対応を任せられる者として、本間が同行を求められるようになった。 本間は、米軍発行のSpecial Force(特務部隊)のメダルを携帯して、夜の歓楽街を巡回して回った。怪しいとにらんだ店の女将と雑談しながら情報収集することもあったが、Special Forceのメダルを見せれば、どこの飲食店で飲み食いしようと自腹を切る必要はない。請求書はすべて米軍基地へ回された。本間は21歳にして、三沢の歓楽街を我が物顔で闊歩するようになったという。2年が過ぎた頃だ、もっとも親しくしていた3人の情報士官が神妙な顔で本間のもとにやってきた。 「先生、おれたちは半年後に本国へ戻らなきゃなりません。一緒に、アメリカに行きませんか? もし来てくれれば、色々な場所に案内します。それで、気に入った街があれば、そこで合気道を教えればいい」 三沢基地内で経験したアメリカ人の生活は、当時の日本と比べると格段に豊かだった。自由と民主主義の国だというアメリカはいったいどんな所なのか見てみたい。本間に断る理由は無い。 半年後、3人の弟子と共に三沢の米軍基地から、米軍輸送機で日本を発つことになったのだ。 この時、本間青年は23歳であった。