「弾痕は私たちが戦った証拠」──廃墟になった内蒙古寺院の壁が伝える歴史
日本の3倍という広大な面積を占める内モンゴル自治区。その北に面し、同じモンゴル民族でつくるモンゴル国が独立国家であるのに対し、内モンゴル自治区は中国の統治下に置かれ、近年目覚しい経済発展を遂げています。しかし、その一方で、遊牧民としての生活や独自の文化、風土が失われてきているといいます。 内モンゴル出身で日本在住の写真家、アラタンホヤガさんはそうした故郷の姿を記録しようとシャッターを切り続けています。内モンゴルはどんなところで、どんな変化が起こっているのか。 アラタンホヤガさんの写真と文章で紹介していきます。 ----------
モンゴル民族は敬虔な仏教徒である。彼らは日本や韓国と同じ、仏教を信仰している。モンゴル社会に仏教が伝来し、その社会や文化に強い影響を与えるようになってからすでに何百年が立った。13世紀以降の彼らの歴史や文化や芸術を語る上で、仏教は切っても切れない。しかし、社会主義になってから仏教は悲惨な弾圧と徹底的な破壊を受けた。 小さい地方の寺に比べ、シリンホト市にはベースインスム(貝子廟)、またの名を「アリア・ジャンルン・パンディタ・ヒードゥ」、清朝からは「崇善寺」という名前を与えられた大きな寺がある。当時、寺の名前は満州語、モンゴル語、チベット語と中国語の四つの言語で命名されることが一般的だった。内モンゴルでも有数の学問寺であり、最盛期に2000人以上のラマがいたという記録が残されている。
このベースンスムとその裏山に立つエルドニ・オボーの復元には、日本に残されている写真資料が利用されている。この寺は日本との関わりがとても深い。 しかし、何回かの火事や文化大革命の破棄によって、廃墟になってしまった。子供の時は、寺の前に市場があったので、母と買い物に行く際、よく寺の壁を見ていた。そこには弾痕が沢山残っていた。 中学2年のとき、寺の前に遊んでいると、知らないお爺さんに声かけられた。彼は1940年代に解放軍の一員として、この寺で戦った元軍人だった。その後、北京で仕事をしていたが、退職して、何十年ぶりに来たらしい。私に「ここにある弾痕は私たちが戦った戦闘の証拠だよ」と語っていたことを今も覚えている。その人と出会ったことによって、私もこの寺に対する見方が変わった。(つづく) ※この記事はTHE PAGEの写真家・アラタンホヤガさんの「【写真特集】故郷内モンゴル 消えゆく遊牧文化を撮る―アラタンホヤガ第7回」の一部を抜粋しました。
---------- アラタンホヤガ(ALATENGHUYIGA) 1977年 内モンゴル生まれ 2001年 来日 2013年 日本写真芸術専門学校卒業 国内では『草原に生きるー内モンゴル・遊牧民の今日』、『遊牧民の肖像』と題した個展や写真雑誌で活動。中国少数民族写真家受賞作品展など中国でも作品を発表している。 主な受賞:2013年度三木淳賞奨励賞、同フォトプレミオ入賞、2015年第1回中国少数民族写真家賞入賞、2017年第2回中国少数民族写真家賞入賞など。