世界一の棋士・井山が制した本因坊とは?
囲碁の国内三大タイトルの1つである、第68期本因坊戦(ほんいんぼうせん)は7月17日、井山裕太本因坊が挑戦者の高尾紳路九段を4勝3敗で退け、防衛を決めた。 七番勝負で行われる本因坊戦は、先に4勝したほうがタイトルを獲得することになる。今期の七番勝負を井山本因坊の側から見てみると、「○××○○×○」という結果。先行して、追いつかれて、離されて、また追いついて、追いつかれ、最後にやっと突き放した、という感じだろうか。 想像するに過酷である。もしも筆者が対局者の家族なら、1局でも早く勝負を終えて楽にさせてあげたいという気持ちになるかもしれない。ただ対局者もファンも、七番勝負が七局目まで進行することをどこかで喜んでいる。自分のひいきの棋士に勝ってほしい、でも好勝負を1局でも多く見たい。七番勝負が終わると、結果に関わらず両者を称えるスポーツマンシップのような雰囲気が、囲碁の世界にもある。 そもそも本因坊とはどんなタイトルなのだろうか。そのルーツは江戸時代の始まりまでさかのぼる。 戦国時代、囲碁は武将たちの嗜みとして広がりを見せていた。天下人と呼ばれる、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は囲碁を嗜み、その3人に囲碁を教えていたのが、初代の本因坊である算砂(さんさ)という人物である。 想像してみてほしい……。信長に囲碁を教え、その亡き後は秀吉に、そして最後は家康に、である。日本の歴代総理に囲碁を教えているようなすごい囲碁の先生、と言えるだろう。 元々は京都のお寺のお坊さんだった算砂。彼が住んでいた小さな建物が本因坊と呼ばれており、そこに住んでいる囲碁の強いお坊さん、つまり算砂が本因坊と呼ばれるようになったと言われている。 家康は囲碁や将棋を奨励し、1612年に始めて、当時のお給料にあたる俸禄を囲碁の棋士たちに与えた。ここから職業としての囲碁棋士が始まったのである。大好きな囲碁でお給料がもらえる……。当時の棋士はどれだけ嬉しかったことだろう。 「家康のおかげで、今僕たちはこうやって囲碁が打てて、棋士として食べて行けるんです。家康には本当に感謝しています」。今でもこう話す棋士もいるくらいだ。 江戸時代の本因坊は家元制で家の中の実力者や有力者が継いでいく形であったが、1939年から、試合の結果で本因坊位を決める、実力制制度が始まった。 そして今年で68期目。実力制になってからは、井山を含め16人の棋士が本因坊を獲得してきた。江戸時代から続く、この歴史あるタイトルは、棋士にとっても特別な思いがあるようだ。 現在の本因坊のタイトル料は3200万円。毎日新聞社がスポンサーとなっている。そして今度は、400名を超える棋士たちが、来年の本因坊獲得を目指して1年間を戦う。 (ライター・王真有子)