「将軍の命日」に吉原遊郭で豪遊、参勤交代も遊女同伴!?闇落ちしたエリート大名の末路
江戸時代には、10代の若さで藩主に就任したにもかかわらず「闇落ち」した大名がいる。その人物とは本多利長(ほんだ・としなが)だ。戦国時代から徳川家康に仕えた名家の子孫だが、圧政や女性問題が取り沙汰され、最終的には領地を取り上げられた。真偽は定かではないが、「参勤交代に吉原の遊女を同伴させた」などの疑惑もある。エリートから転落した利長は、いったいどういう男だったのかを追ってみた。(歴史ライター・編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明) 【画像】吉原にハマって闇落ち!? 本多利長が描かれた絵画 ● 地味ながら徳川家康を 支えた譜代大名の子孫 「本多」の姓を持つ武将・大名といえば、忠勝(ただかつ)と正信(まさのぶ)が有名だ。二人は徳川家康に長年仕え、昨年のNHK大河ドラマ『どうする家康』でも主要人物だった。 だが、同じく「本多」の姓を名乗っている大名の中から、のちに“問題児”が出た。それが本多利長だ。 利長は遠江国(静岡県西部)の横須賀藩を治めていたが、1682(天和2)年に改易処分(=領地を取り上げられること)を受けた。理由は「不行跡」(ふぎょうせき)、すなわち武士としての品性に欠けた行いが目立ったからだった。 不行跡は13カ条とも23カ条とも諸説あるが、いずれにしても数が多い。文献に共通して見られるのは「圧政」と「女性関係」である。 利長の系図をたどると、先祖は本多広孝(ひろたか/1528・大永8年~1597・慶長元年)に行き着く。広孝は正信の分家筋にあたり、家康の父・広忠(ひろただ)に仕え、その後は家康に忠節を尽くした。忠勝・正信と比べ地味な存在だったが、三河一向一揆の鎮圧や三方ヶ原の戦いなどに出陣した記録もある。 広孝の4代あとに生まれたのが、“問題児”の利長である。「エリート」と言える家柄の大名は、どのようにして転落していったのか? 次ページ以降で詳しく解説する。
● 重税による領民の苦しみを 理解できなかった若き殿様 江戸時代に入ると、広孝の本多家は岡崎藩主を務めるようになった。 岡崎は家康の生誕地である。徳川からの信任が篤い者でなければ入部(=治めるために入ること)する権利さえない重要な地だ。そこに1601(慶長6)年に赴くよう命じられたのが、利長の高祖父だった。石高は5万石だった。 44年後の1645(正保2)年、利長は数え年11歳で家督を継ぎ、岡崎藩主となった。 だが、わずか1年後に遠江国横須賀藩への転封(=配置換え)を命じられる。転封の理由を記す文献はないが、おそらく下記のような理由だと筆者は考える。 ・本多家の後任として岡崎に入った水野家が「家康のいとこ」(母方)の末裔だったため、岡崎藩主としてはより適任だったから ・前横須賀藩主だった井上正利の妻が利長の父ときょうだいで、正利と利長は叔父と甥の関係にあり、横須賀藩主には適任だったから つまり、利長に落ち度があったわけではない。事実、横須賀藩も岡崎藩と同じ5万石であり、石高は維持されていた。 まだ幼かった利長はその後数年、江戸にいた。横須賀に国入りしたのは1653(承応2)年、19歳のときが初めてだった。ここから異変が生じ始めた。 名門の本多家は家臣が多かった。そこで利長は新たに武家地を造成し、同時に城の大々的な改造を断行した。書物『横須賀三社縁起私記』には、近世城郭としての横須賀城は利長の時代に整えられたと記されている(※)。 ※『横須賀城学術調査研究報告書』(平成2年)を参照。 だが、こうした「領地の整備」には負の側面があった。