渡邉恒雄氏が若かりし日、「戦場」に持っていった「意外な書籍のタイトル」
カントとニーチェを読みふける
読売新聞グループの本社代表取締役主筆の渡邉恒雄氏が、12月19日、亡くなりました。 【写真】渡邉恒雄氏と徳仁皇太子夫妻 読売新聞記者としてキャリアを歩み、時の政治の「記録者」として活躍したのはもちろん、折々に政治の「プレーヤー」としてふるまったことでもよく知られています。 では、実際のところ渡邉氏はどのような生涯を歩み、なにをなしたのでしょうか。 彼の生涯と業績、そして功罪の全体像を知るのに最適なのが、ノンフィクションライター・魚住昭氏による『渡邉恒雄 メディアと権力』です(単行本の刊行が2000年。現在は講談社文庫で読むことができます)。 綿密かつ膨大な取材によって掘り起こされた数々のエピソードからは、渡邉氏の強烈な個性がにおいたってくるようです。本書は私たちに「日本の戦後政治とはなんだったのか」をおしえてもくれます。 渡邉氏は終戦の直前、1945年の4月に東京帝国大学文学部哲学科に入学します。それは沖縄戦のさなかのことで、氏はすぐに戦争に狩りだされることになりました。そのときのエピソードは興味深いものです。『渡邉恒雄 メディアと権力』より引用します(読みやすさのため、改行や数字の表記を編集しています)。 *** 渡邉が東大文学部哲学科に入学したのはこの沖縄戦の最中だった。講義もろくに聴けぬうち、勤労動員で新潟県・関川村の農作業に狩りだされた。裸電球がやっとついたばかりの山奥の寒村である。 渡邉は田植えや草刈りなど辛い農作業の合間にカントやニーチェを読みふけった。この戦争は大義も展望もない、殺戮を繰り返すだけの愚劣な戦争だ。それでも、まもなく戦場に赴かなければならない。そこで待ち受ける不条理な死に、どうしたら耐えることができるのか。 そんな自問自答を繰り返すうち、渡邉はカントの「道徳律」にたどりついた。 「汝の行為の格律が、汝の意志によって、あたかも普遍的自然法則となるかのように行為せよ」(定言命法の第一方式)「汝自身の人格にある人間性、およびあらゆる他者の人格にある人間性を、つねに同時に目的として使用し、けっして単に手段として使用しないように行為せよ」(第二方式)「意志が……自己自身を同時に普遍的に立法的と見なしうるような、そのような格律にのみしたがって行為せよ」(第三方式) 死を目前にした人間が神や仏に救いを求めるように、渡邉はカントの道徳律にすがった。軍への絶対服従を強いるだけの天皇信仰とちがって、この道徳律には普遍的で合理的な至上の価値がある。軍人であろうと天皇であろうと何びともこれには手を下せない。たとえ自分が殺されてもその価値は滅びない。そう信じることで無意味な死に耐えようとしたのである。 やがて、一緒に関川村に来ていた東大の仲間たちに召集令状が届いた。震える手で「赤紙」を見せる独文科の友人に、渡邉は激励のつもりで言った。 「おい、戦場にも詩があるからなあ」 その瞬間、友人は「エッ」とうめいて、もう一方の手に持っていた握り飯をポロリと落とした。「詩」を「死」と聞き違えたのである。 6月29日、渡邉も「赤紙」を受け取った。東京に戻り、7月5日朝、三宿砲兵連隊に入営した。連隊はまもなく神奈川県の茅ケ崎町(当時)に移動し、口径10センチの榴弾砲で相模湾に上陸してくる米軍を迎え撃つことになった。 入営してすぐ、ニーチェの言葉を葉書に書いて出そうとしたら、それを検閲した小隊長が「生意気だ」と決めつけ、古手の二等兵が革靴で渡邉の顔を殴った。革靴は毎日のように顔面に飛んできた。愚劣な戦争も陰惨な新兵いじめもすべて天皇の名において行われた。 8月7日、渡邉は外泊を許され、帰宅した。駆けつけた東高(註:旧制東京高等学校)の2年後輩の馬場隆之が、代議士の父から仕入れた極秘情報を知らせた。日本はすでに連合国のポツダム宣言(7月26日)により無条件降伏を迫られているのだという。8月6日に広島に投下された「特殊爆弾」の破壊力はすさまじく、戦争の続行自体が難しくなっていた。 「降伏の時期はだいたいいつごろだ?」 と渡邉は聞いた。 「9月でしょう」 と馬場が答えた。あと1ヵ月生き延びれば助かる。そう思ったとき、ある計画が浮かんだ。降伏前に米軍が上陸してきたら、自隊の大砲が打ち出す10センチ榴弾の下をかいくぐって単身投降しようというのである。成功すれば3、4年は捕虜収容所暮らしになるだろう。その間、繰り返し読むに堪える本を持っていかなければならない。収容所で米国人と話すには英和辞典も必要だ。 渡邉はひそかに3冊の本を部隊に持ち帰り、枕の中に隠した。カントの『実践理性批判』と、イギリスの詩人ウイリアム・ブレイクの詩集、そして研究社のポケット・イングリッシュ・ディクショナリである。見つかれば、軍法会議にかけられることを覚悟しなければならない。 ところが終戦2日前の13日、渡邉は突然、除隊の内示を受けた。理由はいまだにわからない。2日後の15日午前8時、部隊を出た。茅ケ崎駅に着いたとき、新潟の関川村でいっしょだった東大独文科の友人と出くわした。握り飯を落とした男である。 「おい、俺たちはどうなるんだ」 と不安がる友人に渡邉が言った。 「今日な、玉音放送ってやつがあるんだ。聞いたろう?」 「聞いた、聞いた」 「12時に天皇が放送する。これは降伏の放送なんだ。だからそれまでうまく逃げりゃ、大丈夫だ」 そのやりとりを後ろで聞いていた男が「何を言うか、貴様!」と怒りだした。男もこの朝、除隊になったらしかった。 「われわれは北方方面に再展開するため、いったん除隊になったのである。貴様らは何を言うかっ!」 渡邉は何とか男をなだめて列車に乗った。藤沢駅に着いたのは正午前だった。全員下車を命じられ、天皇陛下万歳を三唱させられた。 正午きっかりに天皇のラジオ放送が始まった。だが、ほとんど聞き取れない。「米英の……残虐なる……」という言葉が聞こえた。これは戦争継続かもしれない。確かめようと思っても、隣の将校たちは沈鬱な顔をしている。うかつなことを訊いたら半殺しの目に遭う。 列車はやがて東京駅に着いた。新聞の号外の呼び鈴がチンチンチンチンと鳴り響いていた。号外の大見出しが目に飛び込んできた。 《戦争終結の大詔渙発さる》 戦争は終わった。そう思ったとたんストンと渡邉の腰が抜けた。立てなかった。渡邉は履いていた下駄を手に持ち替え、四つ足の動物のようにぶざまな格好で構内を這いずり回った。 *** 哲学書や詩集を好み、戦場にまでそれをもっていっていた渡邉青年。後年に発揮される底知れない精神力やエネルギーは、こうした時期にやしなわれたものなのかもしれません。 さらに【つづき】「その日、ナベツネに野中はひれ伏した…渡邉恒雄という男の「すさまじい政治手腕」の実態 」の記事では、渡邉氏の政治的な手腕についてくわしく紹介しています。
魚住 昭(ノンフィクションライター)