佐倉城で改革を進めた堀田正睦 「開国」に導いたのはいったい誰だったのか
『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の"城好き"で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。 【画像】佐倉城址公園にはタウンゼント・ハリスと、堀田正睦の銅像が立つ
老中首座を譲った阿部正弘は39歳の若さで亡くなった
ご自分のことを歴史探偵と名乗る作家の半藤一利氏は「幕末はペリーから始まった」と言います。嘉永6(1853)年6月3日、マシュー・ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が浦賀沖やってきます。この、いわゆる黒船一行が日本人に与えた脅威は計り知れず、翌年日米和親条約が締結され、開国へと向かい、幕府の衰退が一気に加速します。 当時の老中首座は阿部正弘。彼は朝廷や外様大名から意見を求めるいっぽう、勝海舟や大久保一翁、高島秋帆らを登用して、海防にあたらせています。 しかし、開国をめぐって攘夷派、開国派が激しくやり合うなかで、阿部は老中首座の座を堀田正睦(ほったまさよし)に譲ります。おそらく相当なストレスだったのでしょう、阿部はその2年後、39歳の若さで亡くなっています。
順天堂大学のルーツ
堀田正睦は老中首座になる前、佐倉藩で改革を進めていました。その最たるものは、蘭医・佐藤泰然を招いて診療所とした佐倉順天堂の開設でした。現在の順天堂大学はここから興っています。堀田は開国論者でした。書物を読み、アヘン戦争によって欧米列強から食い物にされるようになった清国のようにならないためには、開国しながら国防を重視しなければならないという考え方を持っていたのです。 ですから、老中首座が堀田になると、できるなら諸外国との通商はしたくないという阿部の時とは政策が変わります。日米和親条約を結んだアメリカは、イギリスやフランスに先駆けて貿易の拡大を目論み、通商条約締結を目ざしてタウンゼント・ハリスを派遣します。
「堀田は腹を切れ!」
堀田にとっては、アメリカとの通商条約提携は望むところでしたが、ハリスはあくまでもアメリカの利益を考えるアメリカ第一主義。日本国内も一枚岩ではなく、思うように交渉が進みません。 なかでも御三家・水戸の徳川斉昭が筋金入りの攘夷論者で、「堀田は腹を切れ!」と大反対する始末です。後の混乱を避けるためには、通商条約締結には御三家と相談し、異論がないかたちをとらなければと堀田は考えていました。