パリ五輪のこの開会式を、なぜ東京は実現できなかったのか?
<パリ五輪の開幕式は多様性の包摂と「フランスの物語」、そして「愛の讃歌」のセリーヌ・ディオンが世界を感動させた。なぜ3年前の東京大会でこれができなかったのか>
パリ五輪の開会式が26日夜(日本時間27日早朝)に行われた。高速鉄道TGVへの破壊工作が直前に発生し交通網が混乱、天候にも恵まれず時に雨が激しく降る中であったが、予定通りに開催され無事に終了した。【北島 純(社会構想⼤学院⼤学教授)】 パリ五輪でも「やっぱり!」 国内からも反発が...アメリカ代表のユニフォームが「ダサすぎる」問題 初めてメインスタジアムの外で開催された夏季五輪開会式だ。これまでにない革新的な構成が取られ、大きなインパクトを与える演出内容だったが、新しい試みに対する批判の声もあがっている。 確かに、選手団の川下りは「グダグダ感」を否めず、選手一人ひとりの様子もカメラ越しには良く分からないことが多かった。乗っている船の種類もバラバラで、選手団の規模によるセレクト・組み合わせとは言え、参加国の経済格差、国力の差を想起させるような危うさを感じた人もいたかもしれない。開催国フランスをのぞく全ての選手団が「パリのおのぼりさん」状態に見えてしまうような川下りが五輪開会式に本当に必要だったと言えるか、アイデア先行の無理やり感も残る。 中継放送に差し込まれる「動画」の演出内容も、一部の演出は明らかに大人向けであり「過激」で、宗教保守層やムスリム等の反発を買う内容も見受けられた。フランス流エスプリ(機知)の発露とも言えるかもしれないが、世界中から様々な立場のアスリートが参加する五輪の精神とそうした演出が整合的と言えるか疑問に思った人もいるだろう。パリを含めたフランスの「移民社会」が抱える様々な困難と課題は、言及すらされなかった。 しかし、それでも今回の開会式は画期的だったと言えるのではないか。 一つには、秀逸な舞台設定だ。セーヌ川両岸のパリ中心部エリアが広く式典の舞台として設定された。「点」ではなく「面」的な舞台が上手に構築されていた。 セーヌ川沿いの名所では歌唱や舞踊などのパフォーマンスが繰り広げられ、川面を「走る」馬が五輪旗を運び、ルーブル美術館近くのチュイルリー公園では聖火台となった気球が浮かび上がった。パリの象徴であるエッフェル塔はレーザー光線で美しく照射され、その中からセリーヌ・ディオンが「愛の讃歌」を歌い上げるクライマックス。 パリに特別な思い入れがある人も、そうでない人も、こうしたパリのランドスケープを使って「五輪に至るフランスの物語」を立体的に配置するような舞台設計には感心したのではないか。 ■闘病中のセリーヌ・ディオンが歌った「愛の讃歌」 競技会場を分散配置させることは近年の五輪運営における定石だが、開会式の舞台が分散配置されたのは初めてだ。警備上の難点を乗り越え、五輪開会式という世界で最も注目を集めるイベントで開催都市パリの魅力をふんだんに伝えたのだ。都市プロモーションのケースとしては成功事例ということになるだろう。 次に、演出の革新性も際立っていた。「オペラ座の怪人」の映像から始まったかと思うと、レディー・ガガの「羽飾りのトリック」熱唱が響き渡り、ムーラン・ルージュの現役踊り子がフレンチカンカンを踊る。フランス革命期の「レ・ミゼラブル」の映像が流れ、シテ島のコンシェルジュリ(旧監獄)の窓からマリー・アントワネットが自らの首を抱えて登場したかと思うと、メタルバンド「ゴジラ」が革命歌を奏でる。 愛についての本を読んでいた3人組が図書館を飛び出しアパートで愛を交わすかと思わせておいて、ゴールドの衣装に身を包んだアヤ・ナカムラがアフロポップ曲「ジャジャ」を歌い、ルーブルから盗み出だされた「モナリザ」が川に浮かぶ一方で、シモーヌ・ヴェイユらこれまでに活躍してきた女性の銅像がそそり立つ。 こうした構成はカオス的であり、ちょっと油断すると野放図な馬鹿騒ぎ、トリコロールな「セーヌの乱痴気」で終わりかねない。しかし、今回の開会式で芸術監督を務めたトマ・ジョリー(42)は、ほとばしるような「多様性」の表現を「愛」という概念で包摂して祝祭的空間にまとめ上げることにある程度、成功したように思える。 いわばダイバーシティの爆発的な称揚がなされた訳であるが、同時に、フランス共和国の理念である自由(リベルテ)・平等(エガリテ)・博愛(フラテルニテ)の「物語」が丹念に描かれていたことが殊の外効果的で、全体としての統一感が損なわれない程度の仕上がりを見せていたと言えるのではないか。 レディー・ガガやセリーヌ・ディオンといったフランスと直接的な関係があるとは言えないグローバルなスーパースターを起用する一方で、ギリシア神話のディオニュソス神に扮したフィリップ・カトリーヌ(フランスの著名歌手)を登場させるなど、攻めと守りのバランスも上手に保たれていた。 そして何よりもラストが素晴らしかった。スティッフパーソン症候群と闘うセリーヌ・ディオンが、エッフェル塔でエディット・ピアフの「愛の賛歌」を歌いあげる構成は、演出としては最高に近いものだったと言うべきだろう。 ここで、どうしても想起せざるを得ないのが2021年の東京五輪の開会式だ。 ■「多様性と伝統の称揚」は今回が初ではない ダイバーシティ(多様性)やジェンダー等の先端的な視点と、受け継がれてきた伝統文化を同時に称揚するといったコンセプトは、今回のパリ五輪が最初ではない。前回2021年の東京五輪もそうした試みの一つだったと言える。マンガのキャラクター等のサブカルチャーが伝統文化と絡み合い、各国のアスリートをもてなす。東京五輪こそがそうした視座を世界に先駆けて提示しえたはずだった。それは世界が今なお驚異の目で日本を見る問いかけ(なぜ日本はそれが出来るのか)に対する回答でもあったに違いない。 しかし残念ながら、コロナ禍による開催延期等、様々な混乱の中で企画は修正され、担当者も変更された。大友克洋原作『AKIRA』の「赤いバイク」が東京を疾走する光景を拝むことは叶わなかった。 パリ五輪開会式の充実ぶりを見るにつけ、なぜそれを東京五輪で出来なかったのかという釈然としない思いがつのるのは、おそらく東京五輪を総括できていないからだろう。例えば大会経費について、東京五輪組織委員会が公表した1兆4238億円という数値は、会計検査院によって1兆6989億円だと増額認定されている。経費の算出根拠に関する見解の相違であるが、問題なのは「開会式にいくら費やされたか」を含めた詳細が未だに開示されていないことだ(パリ五輪の経費詳細も現時点で不明だが)。 やりっぱなしではいけない。公金が支出された以上、国民に対する説明義務があるという抽象論だけではなく、何がどう決まり、どう支出されて、どのような効果があったという検証は、次世代がこれからの日本をどうデザインしていくかを考えていく具体的な基盤になる。今回のパリ五輪開会式を一つの契機に、東京五輪についても遡った検証を改めて、進めていくべきであろう。
北島 純(社会構想⼤学院⼤学教授)