ある情報マンの33年=2024年を振り返って(10)
個人的なことで申し訳ないが、私は来年定年を迎える。TSRに入社して33年が過ぎた。入社のきっかけは就職情報誌に掲載されていた「企業倒産取材社員」募集の広告だった。「倒産取材って一体、何?」との興味本位で入社試験に応募。役員面接を経てサラリーマンの聖地、新橋に本社があったTSRに1991年4月に入社した。入社後、歴戦の勇士(?)の情報部先輩社員に企業倒産取材のノウハウから夜の付き合いまで幅広く教わりながら、情報マンとしての経歴がスタートした。 今思えば、当時の情報部の職場環境はとても緩い環境で17:00には終業。先輩社員に連れられ、新橋での夜の付き合いに積極的に参加した。当時、先輩社員が主催していた飲み会には連日、マスコミや金融機関、大手商社の審査担当者などが顔を出していた。こうした飲み会は参加メンバーを変えながら連日続く。ハードだったがこれが私の土台を築いている。 先輩社員が毎日行っていたこの飲み会は、開催回数は少なくなり、場所も4~5回変わったが、今でも金融機関やマスコミの方など毎回15~16名のご参加をいただき、初心を忘れないよう月1回、新橋の店で開催している。 入社から10年が過ぎ、大手商社を担当するようになった。審査担当者との情報交換でよく聞かれたのは「信用不安企業についての噂」の真偽確認についてだ。その当時、審査担当者の問い合わせに対し、「その企業の信用不安の噂は聞いています」と回答することがよくあった。だが、担当者からは、「その信用不安を確認するのが御社の仕事でしょ」と苦言を呈されたことを鮮明に覚えている。以来、その担当者からの信用不安の問い合わせには即座に確認することを心がけ、「倒産したのではないか」との問い合わせには、現場に急行し、現地から現状報告を行うようにして信頼を得るように努めた。取材を重ねるにつれ、その方から「すぐ報告してくれて助かる。ありがとう」との言葉をいただけるようになり、情報マンとしての矜持を持てるようになった。 TSRへ転じる前の勤務先は、三洋証券(株)(TSR企業コード:290984637)だった。バブル時代、コンピューターや「東洋一」と称するディーリングルームなどへの過剰投資、グループのノンバンクの経営不振などの影響で1997年3月期まで6期連続で赤字を計上。経営に行き詰まり、同年11月3日、東京地裁に会社更生法の適用を申請した。 三洋証券の倒産に続く形で11月15日には、北海道拓殖銀行が破たん。さらに同年11月22日、山一證券(株)(TSR企業コード:291010687)が自主廃業に追い込まれるなど(その後1999年6月破産)、金融危機が本格化した。 1998年には日本長期信用銀行(現:SBI新生銀行)、日本債券信用銀行(現:あおぞら銀行)が一時国有化されるなど金融業界の混乱が続くなか、2000年以降は上場企業の倒産が相次ぎ、企業倒産は1万9,000件台と高水準が続き、倒産取材に追われる日々だった。忙しい中でも情報マンとして充実感を得ることができた。 日々、倒産取材を続ける中、いまでも「張り紙」に過剰反応してしまうのは情報マンとしての「あるある」だ。倒産企業の不幸を差し置いて、倒産のお知らせ(張り紙)を見つけようと立ち回ってしまうのは心苦しいが、現場取材で弁護士名が記載された張り紙などを見つけたときは、メモと写真を撮らずにはいられない。 あと9カ月で定年を迎える。これまでの倒産取材の経験から全国の情報マンに伝えたいことは、「現場の臨場感をユーザーに伝えられるのは我々の特権であり、ユーザーはその情報を待ち望んでいる」ということだ。数々の取材現場から情報を発信し続けていただきたい。