靖国神社、その原点と三つのWHY ─「靖国」を“つくった”木戸孝允
木戸孝允、高杉晋作も学んでいた有名道場の跡地に創建
今から150年ほど前の、現在の靖国神社のある場所にタイムスリップしましょう。そこは幕末の江戸。現在も東京には坂が多く、三千ほどの坂があるといわれていますが、江戸時代には、たいてい坂の上には武家屋敷があり、坂の下には庶民が住んでいたものです。また、ここは江戸城の外堀の周辺とあって、旗本、御家人の屋敷が配されていました。 現在よりも急傾斜で、坂道で牛がお堀の中に墜落溺死したことから牛ヶ淵の別名があった、たいそう長い九段坂(元は九段の石段だった)を上がると、あたりは武家屋敷で、幕末には、斉藤弥九郎という、神道無念流の剣客の有名な道場がありました。練兵館です。練兵館は、幕末江戸三大道場(他の二つは士学館と玄武館)の一つで、「市中三尺の童子も知らぬ者はなかった。」(矢田挿雲『江戸から東京へ』)ほどでした。 そこで学んでいたのが、木戸孝允(桂小五郎)、高杉晋作、谷干城、品川弥二郎ら幕末の志士などでした。木戸孝允は、優男のイメージを抱いている方が少なくないようですが、じつは長州藩から剣術修行のため練兵館に入門し、免許皆伝を得て、一年足らずで塾頭となり、帰国するまでの5年間、その武名を轟かした剣豪だったのです。 幕府が倒れ、明治維新が成って、明治元(1868)年5月10日、政府は、国事に殉じた者のみたまを合祀し、長く祭祀を行う太政官の布告を出しました。また同日、伏見戦争以来の戦没者を祭祀することも布告しました。 戊辰戦争の戦没者の招魂場を建設する構想を抱いていた木戸孝允は、明治2(1869)年になって、同じく長州藩出身の同志であり、「近代日本陸軍の創設者」として知られる大村益次郎(村田蔵六)に提案。3月に東京遷都の後、6月12日、軍務官副知事だった大村益次郎は九段坂上の、大政奉還後に急造されたという、旧幕府歩兵屯所の跡を検分し、皇居の北西の高台にあるこの場所を、招魂社建設の地と定めました。 早くも6月29日に東京招魂社が創建され、式典が挙行され、5日間、招魂祭が行われました。この旧幕府歩兵屯所跡の火除地の隣には旗本屋敷が立ち並んでいましたが、みな静岡に移住などして、寂しい、不便な場所になっていたため、大村益次郎がこの地を選んだのです。この東京招魂社は、ほぼ10万坪という広大な敷地でした。そこには練兵館跡地も含まれていて、それは現在の靖国神社境内の東南の角に位置します。東京招魂社入口に隣接して、木戸孝允の拝借邸がありました。