戦後の6大企業集団は戦前の財閥と何が違うのか
はじめに――財閥の再評価
「財閥」や「学閥」などに使われる「閥」という字は、出身や利害などを同じくするグループが徒党を組んで何かの力を背景にして全体を牛耳る際に使われ、基本的にはネガティブな意味を持つ。財閥は財力を背景にして、学閥は学歴を背景にして、社会全体を牛耳っているというわけである。 しかし、長年積み重ねられてきた日本の経営史学の研究は、通説とは違って、財閥が日本の社会発展に貢献したポジティブな存在であったことを明らかにした。財閥を再評価したのである。 一般的に言って、後発国が工業化を達成するためには、①限られた経営資源を特定の経済主体のもとに集中し、②その経済主体が集まった貴重な経営資源を適切な工業部門に投入する、という二つのプロセスが必要になる。このうち①のプロセスは、典型的には、特定の富裕な家族(ないし同族)のもとへの経営資源の集中という形をとる。問題はその先であり、該当する家族・同族が経営資源から生み出される果実を内部にとどめようと保守的な行動をとることによって、②のプロセスが実行されないことが多いのである。 これに対して、日本の場合には、財閥というシステムを通じて、家族・同族の影響力がある程度封じ込められ、専門経営者(salaried manager、雇われ経営者)に進出の機会が与えられたため、②のプロセスは、総じてスムーズに遂行された。日本の財閥は、政商から改革によって近代的な経営体に脱皮した、強烈な工業化志向を持っていた、そのために非財閥系企業よりも積極的に専門経営者を起用した、という3点において、他の後発国における多くの富裕な家族・同族とは異なる、稀有な存在だったのである。 (中略)
財閥・企業集団の断絶性と連続性
戦前の日本では、三井・三菱・住友・安田の4大財閥の影響力が大きかった。一方、戦後の日本で力をもったのは、三井・三菱・住友・安田・第一・三和の6大企業集団であった。6大企業集団は、戦前の5大銀行に三和銀行を加えた6大銀行を中心に形成された(安田銀行は48年に富士銀行と改称した。第一銀行は71年に日本勧業銀行と合併して第一勧業銀行となった)。 なお、企業集団の成立の指標は社長会の結成に求めることができる。50年代から61年にかけて成立したのが住友系の白水会、三菱系の金曜会、三井系の二木(にもく)会である。芙蓉(ふよう)系(富士銀行系)の芙蓉会、三和銀行系の三水会、第一勧業銀行系の三金会が発足するのは60年代半ば以降で、これら3集団は後発だった。 では、財閥と企業集団との関係については、どのようにとらえるべきだろうか。 財閥と企業集団が組織的に非連続であることは、明らかである。そのことは、財閥ではみられた家族・同族や本社(持株会社)の影響が、企業集団では消滅したことに端的に示されている。 一方で、財閥と企業集団は、機能的には連続性をもっている。それは、所有を封じ込め、経営政策の自由度を高めるという機能である。 戦前の日本の財閥では、通説的なイメージとは異なり、所有が二重の意味で封じ込められ、それだけ事業会社(事業部門)の経営の自由度が高められていた。まず、財閥の同族と本社(本社設立以前には事業部門)との関係においては、同族の所有は総有制により「制約された所有」であった。総有制は、「家産の分割を認めず、同族各家からみれば私的な所有としての本来の性格である処分の自由を容認しない」(武田晴人「多角的事業部門の定着とコンツェルン組織の整備」法政大学産業情報センター・橋本寿朗・武田晴人編『日本経済の発展と企業集団』東京大学出版会、92年、78頁)ものだったので、所有を制約する機能をはたした。そして、この「制約された所有」は、財閥同族の事業経営への関与の後退という「制約された支配」と結びつくことが多かった。さらに、財閥本社と直系事業会社との関係においても、「財閥本社は直系企業の専門経営者にとっては安定株主として機能した面もある」(橋本寿朗「序」同前書、13頁)ことを忘れてはならない。安定株主としての財閥本社は、直系事業会社の専門経営者たちの経営の自由度を高めたのである。 財閥と企業集団との関係については、両者は組織的には断絶しているが、機能的には連続性を有すると概括することができる。 (中略)