「年末に久々に家族と食事をしたら涙が出そうに…」創志学園監督として甲子園に戻ってきた名将の現在
母校である神奈川の名門・東海大相模を率い、23年間で春夏合わせて4度の甲子園優勝を成し遂げた門馬敬治監督(54)が岡山・創志学園を率いてふたたび聖地に戻ってくる。 9年ぶりに新入部員が…PL学園「清原&桑田の夢よ再び!選手一人からの野球部復活」と甲子園への障壁 東海大相模を離れた後、新天地に選んだのは、「縁もゆかりもなく、降り立ったこともなかった」という岡山だった。決め手は何だったのだろうか。 「大橋博理事長(当時。’23年度から学校法人創志学園総長)の『全力でお守りしますので、思い切って勝負しましょう』という一言です。人間って弱い生き物じゃないですか。弱いから、倒れそうになるときがある。そこで誰が支えてくれるかというのは、非常に大きいと思うんです。苦しい、厳しい、つらいといった場面で支えてくれる人がいるのは安心感につながる。この『安定ではなく、安心』というのが人間にとって一番大事なことなんじゃないかと思います」 この「お守りします」は、「支えます」と同義。“安定”を求めるならば、土地勘や人脈を生かせる関東圏などの方が無難だろう。だが、門馬はそれ以上の“安心”を感じ、協力を惜しまない人物の下、再び全国制覇を目指す環境に魅力を感じたのだ。 正式な監督就任は、’22年8月10日。前監督が率いたチームが4年ぶりに出場した夏の甲子園での戦いを終えた直後からだった。 創志学園野球部は、’10年の開校と同時に創部され、初代監督である長澤宏行(現・篠山産業高校監督)の指導の下、急速に成長。’11年春のセンバツに“史上最速”で出場したのを皮切りに、この時点で春夏計6度の甲子園出場を誇る常連校へと飛躍していた。 この背景を考慮せず、「ゼロから強化した」などの言葉を使うのは乱暴だが、就任直後から門馬の手腕は光っていた。 ’22年夏の甲子園でベンチ入りしていた2年生は3人。投手陣は総入れ替えだった。そんな中、新天地初の公式戦となった同秋の岡山大会は、継投で相手の攻撃をかわし、いきなり準優勝。続く中国大会でも、開幕直前の登録変更でベンチ入りさせた野手が同点本塁打を放つ活躍を見せた。 しかし昨夏は、東海大相模時代には一度も経験しなかった初戦敗退に終わる試練も味わった。’23年夏の岡山大会の参加チーム数は57。前任の神奈川は全国で2番目に多い167。就任間もない頃、報道陣からかけられた「岡山は神奈川に比べて学校数も少ないですが…」との質問に対し、門馬はこう返答している。 「参加チーム数が多くないということは、大会序盤に実力校と対戦する機会が多いということじゃないですか。まだこっちに来て日は浅いですけど、公立の伝統校、実力校も多いと聞いているので、早い段階でそういったチームと戦わなければならない怖さがありますよ」 夏の初戦に5-8で敗れた相手は岡山南。奇しくも、“公立の伝統校”だった。 夏の悔しさから一転、就任後初めて県の頂点に立った。開幕前の優勝予想は倉敷商、おかやま山陽を推す声が圧倒的だった。創志学園は中軸を含め、毎試合組み替えた打線が機能して県大会4試合で26得点を奪い、前評判を覆した。 就任後初の甲子園出場を手繰り寄せた中国大会で印象的だった場面がある。勝てば就任後初のセンバツ出場が確実になる準決勝。高川学園(山口)との一戦で、この日2長打を放っていた1番打者が、塁上で足が攣った。 攻撃の中心となる選手のアクシデントで、治療中断をはさんで回復を待つのが一般的。だが、門馬は交代を即決した。高川学園に勝利した直後、その意図を尋ねた。 「本当は引っ込めたくなかったよ。でも、(治療中断で生じる)あの“間”が嫌なんだ。あの時間で野球が変わってしまう」 野球の機微を熟知した指揮官のタクトに導かれ、チームは中国大会準優勝。就任から1年強で甲子園への帰還を決定づけた。 岡山にやってきた当初は自身の人脈を生かし、「つながりのある関東圏のチームから有力な選手を迎えるのでは」とささやかれた。実際に中国地方の中学チームの関係者に挨拶をした際、「うちには関東の子と勝負できるような選手はいませんよ」と返されたこともしばしばあった。今後の選手発掘はどうイメージしているのか。 「関東の選手に積極的に声をかけて…というようなことはしていません。自分としては『創志学園でやりたい』という選手が一番。エリアを挙げるとするならば、学校のある中国地方、そこを一番に考えています。ただ、岡山の学校なので、岡山の選手は大切にしたい。やっぱり地元って大切じゃないですか。甲子園に出たら、『岡山県代表』となるわけなので。それこそ県民の人たちから岡山の代表と認めていただける、応援していただけるチームにしたい」 東海大相模時代、大田泰示(DeNA)ら広島出身の選手や、島根の硬式チームから選手が入部したことはあったが、中国の多くのチームが未開拓だ。 「神奈川にいた当時も沖縄、北海道のように、初めてのところにも行って、道を作ってきたので。道なきところに道を作るには、自分で動くしかないと思っています」 創志学園の練習や社会科教諭として教壇にも立つ合間を縫って、中学生の大会や練習を視察すべく車を走らせる。昨年は、「プロに行ける素材」と目を付けていた中国地方のある左投手を熱心に追いかけ、昨年5月の大会では降りしきる雨もいとわず、スタンドでじっと試合を観ていた。門馬が就任した後に創志学園に初めて選手が進学した、中国地方の硬式チームの監督は、こう語っていた。 「門馬さんが何回も見に来てくださったので。我々も感じるものがありました」 有名監督だから、ではなく、「一番熱心に見てもらったから」。門馬の熱意と本気は、中国一円に伝わりつつある。 東海大相模時代はグラウンドに隣接した自宅で、七美枝夫人ら家族と生活をともにしながら、白球を追った。しかし創志学園に赴任後は、岡山市内で一人暮らしをしている。54歳にしての単身赴任。掃除、洗濯はつつがなく行えているとのことだが、話が食生活に及ぶと、少し歯切れが悪くなった。 「(岡山ご当地グルメの)さわら、黄ニラ、エビ飯とかも食べましたよ。でも、毎日の食事が一番きつい…かな。『自炊って言えるのか?』という程度のことしかやってない。卵を焼いたりとか。でも、せっかくだから出来たてが食べたいなと思って食べると、その後の片づけがなあ…。今までは嫁がやっていてくれたんだなあって実感しています。一人で食べるのは、やっぱり楽しくないしね」 それだけに、年末年始に地元に戻り、久々に家族と囲む食卓は格別だった。 「年末に帰って家族と一緒に飯を食うと、『ああ…』と。家族には言えないけど、涙が出そうになった。うれしくて。みんながそろっていたら、何を食べていても『ああ、うれしいな。また頑張ろう』と思えた。離れていても、家族で戦っていると再確認できました」 いよいよ、約2ヵ月後には、自身3年ぶりの甲子園での戦いが始まる。夏を含め4度、聖地の頂点から見た景色はどんなものだったのか。門馬の回答は素気なかった。 「忘れた。昔のことは忘れるようにしているんです」 ただ、これこそが頂点を知る者にしかできない答えだった。門馬が続ける。 「以前、横浜の渡辺先生(元智、元監督)からいただいた言葉で、『甲子園で優勝したら、早くその“優勝”という山を下りるんだ』と。初めて優勝したとき(2000年春)は、その言葉が全然理解できなかったんです。大変な思いをして山を登ったわけだから、下りたくない。『夏の山に飛び移れるんじゃないか』という変な錯覚もあったんです。だから、その夏は甲子園に出られなかった(神奈川大会準々決勝で敗退)。 春とは全く違う夏の山を登るんだから、当然一から登らなきゃいけない。だから、下りる勇気が必要なんです。でも、これが怖い。下りたら、『ここまでつけてきた力が全部なくなっちゃうんじゃないか』とか、『また登れるのか?』という不安がある。 だから甲子園の決勝で勝った後、インタビューが終わって、一塁側から(下の通路へ)下りる時には、もう全てを忘れてなきゃいけない。次に向かわなきゃいけない。下りる準備をしなきゃいけない。だから、勝った試合って、あまり覚えていないんですよ」 門馬は最高峰まで登り詰めた“神奈川の山”を、とっくの昔に下りていた。だからこそ、岡山という新しい山の頂点に就任2年足らずで立つことができたのだろう。 そして今は、タテジマでなく、アイボリーのユニフォームに身を包み、かつて3度登頂した“春の山”の登山口に立っている。今回のチームを「粘る力はあるかもしれないが、本物の実力はない」と自己分析するが、頂点を意識して乗り込んだ大会と臨む姿勢は変わらない。 「変わらず、一戦にかける。すべてをかけますよ。それ以外ないです。本気のチャレンジしか財産になっていかないと、いつも思っているので」 「創志学園の門馬敬治」としてどうやって頂点へ登っていくのか。その道のりを、多くの者が注目しているだろう。(文中敬称略) 取材・文:井上幸太 1991年、島根県生まれ。大学卒業後、出版業とは無関係の会社員生活を約2年半送った後、’17年10月からライターとして活動を開始。現在は、居住地である島根県の高校野球を中心とした中国地方のアマチュア野球を中心に取材。著書に『貫道 甲子園優勝を目指す下関国際高校野球部・坂原秀尚監督とナインの奮闘』、構成担当に『アフリカから世界へ、そして甲子園へ 規格外の高校野球監督が目指す、世界普及への歩み』(いずれも東京ニュース通信社)がある
FRIDAYデジタル