工業は“美”だった──プロ好みの名作・パレスサイドビルが生まれた時代
普遍的な空間を目指して
「ユニバーサル」という言葉は、現在では「障害のない」という意味に使われているが、建築モダニズムの形成期においては「幅広い用途に使える普遍的な空間」という意味であった。特に、ワルター・グロピウスやル・コルビュジエとともに、機能主義モダニズムの中心概念としてのインターナショナル・スタイル(国際様式)を築き上げたミース・ファン・デル・ローエの作品に現れる空間が典型的である。 ゴシックやバロックやクラシック(建築においては古代ギリシャ風の様式を指し近世近代にも主流であった)といったヨーロッパにおける歴史的な様式を否定することから出発した近代建築は、さらに、「装飾そのものを否定」するに至り、「機能のみに基づく空間」を志向し、やがて各地の風土や伝統に関わらない「普遍的な空間」に向かったのである。国際様式というものだ。 それは人類の文明が、地中海・西欧文明を基本とする、科学技術的普遍性に向かうという前提の上にあり、1960年代までは、その方向性が疑われることはなかったのである。 パレスサイドビル以後、日本のオフィスビルでは「コア(核)」と「ユニバーサル・スペース」の組み合わせによる設計が一般的となり、日建設計の林グループは、その配置のプロトタイプ(原型)となるいくつかの名建築を設計する。パレスサイドビルと林グループが、高度成長期における日本のオフィスビルの水準を上げたといってもいい。
機能と性能の美意識
こういった建築の設計において重要なのは、詳細部分(ディテール)と寸法単位(モデュール)の、洗練と標準化である。「ユニバーサル」とは汎用性があるという意味であり、その空間設計は、自動車や電機製品のように、量産(建築では同じパターンが繰り返されること)のプロトタイプ(原型)となることを前提として、オフィスや会議室としての使い方と、照明、空調、防災などの設備の、最適な構成を追求することになる。 それは、バウハウスが掲げた「トロッケン・モンタージュ・バウ(乾式組立建築)」という概念の延長上にあり、一つ一つの現場生産から、工場でつくられた部品の組み合わせに移行する「工業化」が、建築の進むべき道と考えられていた。 「プロ好み」とは、大向こう受けの派手な造形ではなく、このように、空間と部位部材がみごとにコーディネートされていることを指すのであるが、専門的にはこれを「構法」と呼ぶ。戦後日本の建築構法は、この日建設計の林昌二の実践とともに、東京大学の内田祥哉(名誉)教授の研究によって、一段と進化した感がある。部分から全体に至る空間形態の機能と性能を美意識に総合する精巧緻密なデザインであり、日本人特有の職人的努力の積み重ねでもある。 林は戦時中、飛行機の設計者を志していた。この世代の建築家には何人かそういう人がいる。零戦や中島飛行機の技術者魂が、平和な時代になって建築に流れ込んだのだ。また内田の父親は東京帝国大学の総長も勤めた人物で、関東大震災の経験から建築構法の防火を追求し、子息の祥哉は構法の工業化を追求した。 こうしたことを考えると、戦後日本の建築技術には、戦前から連続する筋道があると思われる。一つあとの世代である安藤忠雄や伊東豊雄や妹島和世のデザインにさえ、そういった筋道が残っていることを感じる。 戦後日本の高度成長を支えた「ものづくり」には、戦前からの一貫した技術者魂が脈々と息づいているのだ。この時代の日本人は、技術に対して真剣であった。工業は「美」であった。