「西湖畔に生きる」マルチ商法から人間の欲望を描く意欲作 山田洋次監督が注目する中国の俊英が語る映画と人生哲学
長編デビュー作「春江水暖 しゅんこうすいだん」で世界から注目された中国のグー・シャオガン監督の長編第2作「西湖畔(せいこはん)に生きる」が公開された。 【フォトギャラリー】「西湖畔に生きる」場面写真&メイキングカット グー監督は、長編初監督作「春江水暖 しゅんこうすいだん」が2019年カンヌ国際映画祭批評家週間のクロージング作品に選ばれるなど国際的に高い評価を受け、日本では山田洋次監督が選考委員を務めた第36回東京国際映画祭黒澤明賞を受賞した俊英だ。 「西湖畔に生きる」は、世界遺産であり、最高峰の中国茶・龍井茶の生産地としても有名な西湖(せいこ)のほとりに暮らす母と息子が主人公。茶摘み農園で働きながら一人息子を育てたシングルマザーが、あることから詐欺まがいのマルチ商法の世界に足を踏み入れてしまい、成長した息子が母を救おうとする様、そして人間の欲望や現代中国社会が抱える問題を仏教故事のメタファーで表現し、芸術性高い映像表現ととともにエンタメ性あふれるドラマとして描いた。このほど来日したグー監督に話を聞いた。 <あらすじ> 最高峰の中国茶・龍井茶の生産地である西湖のほとりに暮らす母タイホアと息子ムーリエン。ムーリエンの父は10年前に行方不明になっており、タイホアが茶摘みの仕事をしながら、ひとりで息子を育て上げた。ムーリエンは早く仕事を見つけて母を安心させたいと考えるも上手くいかない。一方のタイホアも茶畑の主人チェンと懇意になるが、そのことでチェンの母の怒りを買い、茶畑を追い出されてしまう。やがてタイホアは友人の誘いで違法ビジネスにのめり込んでいき、ムーリエンはそんな母を救うため、ある決断をする。 ――昨年2023年の東京国際映画祭で本作が日本でお披露目となり、「春江水暖 しゅんこうすいだん」を高く評価した山田洋次と対談されましたね。 東京国際映画祭で黒澤明賞をいただき、山田監督と対話ができ、本当に夢見心地で、現実感のないような気持ちでした。おふたりとも映画界における神のような存在で、そんな方にお会いでき、ご縁を持つことができるとは思ってもいなかったので、あの日はとても緊張し、そして私にとって大きな励ましにもなりました。 山田監督は「春江水暖」と本作のスタイルの違いを感じられていたようでしたが、あの日の対話でそのことを説明しようという気持ちはありませんでした。それよりも、これからの作品の中で、私の探索を見ていただけたらと思っています。 ――非常に現代的な問題である、マルチ商法の暗部を描いていますが、釈迦の十大弟子のひとり・目連が地獄に堕ちた母を救う仏教故事「目連救母」がこの映画の物語のテーマだそうですね。 実は、私の親類の1人がマルチ商法に引っかかってしまったことがあるのです。マルチ商法は新興宗教のような側面があります。ですので、息子が地獄に落ちた母親を救うために、自分も地獄に落ちて母親を救う物語である、「目連救母」はぴったりなメタファーになりうると思ったのです。 目連という人物を現代に移し替え、その宗教性を表現する存在にしようと考えました。人間の心というものは両面性を持っています。ある人の心は簡単に天国、天上界に行くこともできるし、また地獄に落ちることもできる。すべて人間世界で起こっていることで、その心1つで決まってしまうのです。 今回の映画の中で、人間の心の両面性を伝統と現代を対比させ表現しました。とりわけ現代は、人間の欲望が極限的な形で現れてしまっていると思います。 マルチ商法に引っかかってしまった親類は、この映画の主人公タイホワと同じように、マルチ組織の素晴らしさ――この団体がいかに成功しているか、どんなにいいところがあるか、ボスがどんなに権威のある存在であるか、をとうとうと説明するのです。私を含め周りの人間は、これ詐欺であり、人間を洗脳するような新興宗教と同じだとわかるのですが、その団体に心酔するその姿がとても興味深かったので、私はリサーチを兼ねて実際にこの映画に出てくるようなマルチ商法のセミナーに参加してみました。 そこでわかったのは、ここに来てる人たちは必ずしもお金のためではなく、自分を認めてほしいから参加しているということでした。 この映画のタイホアは、元々は貧しい農民でしたが、もし成功したらこの組織でマネージャーになれるかもしれない――そういう可能性が人々をこんなにも惹きつけていることがわかったことに興味が湧いたのです。映画の中では、特に中国で問題になった集団を取材し、そのほかいくつかの手法を組み合わせたものですが、それはマルチではない中国企業の成功学のセミナーにも用いられる手法でもあるのです。 人間の欲望がいかにしてコントロールされてしまうか、そして、人間がどうやったら本来の自分に戻ってくることができるのか。 それから、本当の自分と偽物の自分とはどういう関係にあるのかということをこの映画で描きました。タイホアは、本当の自分を見つけたくて、結果として掴んだのは偽物の自分で、そして最後には悪魔のような存在になってしまいます。しかし、息子のムーリンは自然との繋がりがあったので、自然が自分に教えてくれたことに則って、母を救うのです。 私がこの脚本を書いた時は、幸福なことにマルチで騙された親類はそのプロセスから抜け出していました。自殺者なども出る中で、ありがたいことに経済的な損失だけで済みました。この映画を見て、泣いていいやら、笑っていいやら……そんな反応をしていましたね。 ――長編デビュー作「春江水暖 しゅんこうすいだん」は、その芸術性がカンヌをはじめ世界で高く評価されましたが、今作は、アート性と観る者をそのドラマに引き込むエンタメ性が両立している作品だと思います。公開後は中国本土でもヒットしたそうですが、そういった需要も考え、作風を変えたのでしょうか? そのご質問にはちょっと回り道をして答えます。この映画の中国語の原題は「草木人間」といって、植物の話なのです。草木は、中国語では人の世や世間、そんな意味もあるのですが、この映画の中に出てくる登場人物は、みんな草木、植物の名前が入っています。例えば、タイホア(苔花)は、苔の花です。 じめじめした、暗いところに咲く、全然人の目がつかないような、植物を表しています。 そして息子のムーリエン(目蓮)には、蓮の花の意味が入っています。そして、タイホアの友達のにも蘭という文字が入っています。このような名前を付けた理由は、私は人間という存在は、植物に似ていると思ったからなのです。 人間には、主体的、能動的にできることもあれば、受動的に、受け身でしかできないこともたくさんあります。例えば植物の種が風に運ばれて、あるいは鳥の糞の中に混じってどこに落とされて、どこで芽吹くか分からないのと同じことです。それが中国に落ちるのか日本に落ちるのか、アフリカに落ちるのかわかりません。でも、どこに落ちたとしても、私たちはそれを、自分がそこに生まれたということを理解して受け入れなくてはいけないと思うのです。 そして、その種には、本質的に何かの区別はありません。ただ、種が与えた課題がそれぞれ異なるのです。ですから、例えば中国で芽吹いたら、中国の課題を解かなくてはいけない。日本で生まれたときは、日本での課題を解かなくてはいけない、そういうものだと思うのです。 薔薇や菊が優れていて、苔は劣っている。そういうことではなく、それぞれに区別なく、自分の生まれたところで芽吹き、太陽の光がどちらから射しているのかを理解し、それに向かって伸びていくことで、自分の生命を伸ばしていく。これが人生の意味だと思います。ですから、私にとって、どういう映画を撮るのが成功なのか、そういう基準はないのです。 私には何が成功かという考えは重要ではなく、もっと言ってしまうと、映画自体も重要ではないと思っています。人生で最も大事なことは、今、目の前にある仕事をすること、そして自分に合ったその仕事を通して、自分の人生の意味を探っていくことだと思っています。