ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (50) 外山脩
上塚の生活ぶりは、まことに質素で、小屋同然の家に住み、食事もマンジョカだけで幾日も凌ぐことがあった。が、隣人に食べる米がないと乞われれば、客のためにとっておいた最後の分まで施した。 身を飾らず、ボロを纏い破れた靴を履いていた。そういう姿で外出もした。知らぬ人から見れば、見窄らしい、ただの中年男でしかなかった。 入植者一戸一戸に気を配り、どこかで病人が出れば、とんで行って懸命に看護した。 一方で、毅然とすべき時は、毅然とした。 グァインベーで植民地を造り始めた頃起きた事件だが、馬賊八人に、仮事務所用の小屋を襲撃されたことがある。突発事だった。が、上塚は居合わせた数名の入植者とともに、冷静に対応、獰猛陰惨な面貌の賊の銃口を前に、平然ととぼけた顔でピンガをチビリ、チビリとやりながら、彼らを煙にまき、与えるものを与えて立ち去らせた。 直後、一転、ピシッとして、入植者たちと、隠してあったカービン銃を手に、貨物自動車に飛び乗って追跡、前方を馬で行く賊に一斉射撃を浴びせ、負傷・潰走させた。賊一人と馬すべてを捕獲、警察に引き渡した。 西部劇並みの活躍ぶりだ。もっとも、最初、襲われた時、その場からコッソリ逃れた一人が、隣のスイス人のファゼンダへ急を知らせ、そこの六人の若者がやはりカービン銃を持って、応援に駆けつけていた。 上塚は弁舌も、さわやかだった。 普段はピンガを呑んで酩酊していることが多かったが、イザとなるとシャキッとして、理路整然と所説を論じた。 一九二五年、ノロエステ線地方の邦人のカフェー生産者が経済的に窮迫した。 上塚は、これを救済すべく、日本政府から低利の融資を引き出す運動を起こした。 その時、実情調査のため、リオから日本大使館の館員たちが現地を訪れた。(公使館は、一九一八年にペトロポリスからリオへ移転、五年後に大使館に昇格していた) が、彼らは上塚のことをよく知らず、ただのアル中爺さんとしか思わなかった。上塚、その腹の内を読み取るや、やおら立ち上って見事な移植民論を一席ぶち、聞く者の襟を正させた。 融資請願は、既述の様に、奥ソロカバナ線のカフェー生産者の代表星名謙一郎と共に行い、金額は一〇〇万円であった。 実現の可能性は小さかったが、瓢箪から駒で一九二六年、帝国議会で決定、翌年、横浜正金銀行からの融資という方法で八五万円が出た。いわゆる「八五低資」である。「ハチゴ・テイシ」と呼ばれて、邦人社会を沸かせた。 駒が飛び出したのは、上塚たちの訴えで動いた初代大使の田付七太の力によるともいわれる。が、日本の国内情勢が影響していた。詳しくは別章で取り上げる。 この八五低資では、多くの人が救われた。受益者やその周辺では、上塚の名は救世主の如く扱われた。 ……と、まあ、こういうことで、人気が出、敬愛者まで生まれたわけである。 一方で、その生活ぶりは質素そのものであった。 「……見渡せば、さてもいぶせき茅屋の、屋根洩る月は皎々として部屋の中から中天に仰がるる。居は膝を入るれば足り、食は飢えざれば足る……」 日本の郷里から、従弟の上塚司が一九三〇(昭5)年、訪伯してプロミッソンの周平宅を訪れた時の印象記である。司は衆議院議員を何度か務めた人である。 彼は周平の住まいや食事の貧弱さ、健康の衰えぶりの甚だしさに驚き、経費を負担してサンパウロの病院に送った。入院生活は一年に及んだ。