【濱口竜介×蓮實重彦】若い人は『ショットとは何か 実践編』のここを読もう【群像WEB】
――映画の歴史を、奔流のように追体験できる(濱口竜介) 蓮實重彦著『ショットとは何か 歴史編』(2024)は、これまで単行本未収録だった、数々の伝説的な映画批評が収録されている一冊だ。 『悪は存在しない』や『ハッピーアワー』などで知られる映画監督・濱口竜介は本書をどう読んだのか。 (群像2024年12月号に掲載された『ショットとは何か 歴史編』の刊行記念対談「「見ること」と「見逃すこと」」の一部を再編集したものです)
映画の歴史でなにが起きたのか
濱口:もう一つ、うわさには聞いていたんですけれども、今回読んで本当にすばらしいなと思った論考が「署名の変貌──ソ連映画史再読のための一つの視角」です。レンフィルム祭というタイミングで書かれたものだと思うんですけれども、私はまずこの「署名の変貌」の第一章に圧倒されました。 というのは、第一章の中に一九二〇年代から三〇年代にかけて起こった映画のシステムの変貌がものすごく圧縮的に示されていて、この一章を読むと、この時代に何が起きたかということをつかむことができる。と言うか、もし本人にその知識があれば、この圧縮されたものを解凍して、映画の歴史を、奔流のように追体験できる。そういう文章だと思います。それは古典的ハリウッド映画において最も顕著に起きたことですが、それがアメリカだけの出来事ではなくて、映画全体を通じて、日本でもソ連でも起きていたことなんだという事実がこの体に広がっていくような、本当にすばらしい文章だと思いました。 もし若い人に向けて言うならば、この文章をすらすら読めるようになったら、そして情報としてではなくて、具体的な映画の場面を思い出しながらこの文章を読めるようになったら、何がしか映画の一つの流れをつかんでいるということなのではないだろうかと思います。 そして、残念ながら私は取り上げられているソ連映画の多くを見られていないのですが、それらを見たいという渇望に今更ながら襲われます。 蓮實:ありがとうございます。確かにわたくし自身にも発見の驚きがあったわけです。モスクワからクルマで一時間半ぐらいの、周りに何もない場所が、レンフィルムの映画置き場になっていました。 濱口:倉庫みたいなところですか。上映もできる? 蓮實:上映設備もあるところで、十日ぐらいこもったのです。 濱口:それは山根貞男さんと一緒に? 蓮實:はい。山根さん、それに冨田三起子さんもおられました。ところが、ソ連崩壊直後のことで、そこにはまともな食べ物がまったくない。 濱口:コンビニなんかもない。 蓮實:モスクワ市内でさえ、そんな便利な店舗などまだ一軒もなかった。パン屋の前に長い列が出来ており、いたるところで騒ぎが起きているといった、厄介かつ物騒な時期のことでした。そんなときに、しかもモスクワ郊外の鬱蒼とした森の中の一軒家に、よく十日もいられたなと、今にして思いますね。しかし、そこの従業員たちは、女も男もみんなとても親切で、毎日真剣にわたくしどものために複数の作品を上映してくださいました。やはり、映画は、人を結束させてくれるものなのだなと、改めて認識させられました。 濱口:そこで見たのが、ここで取り上げられている映画だったんですね。 蓮實:全てではないにしろ、そこで見たものが主になっています。 濱口:十日間というと、本当に映画祭みたいです。三人だけでレンフィルム映画祭をやっていた。 蓮實:実は、そこを二度訪ねております。二度目は、旧満州でソ連軍に接収された日本映画のプリントがありはしまいかということで、それを探しに行ったときも、山根貞男氏と一緒でした。そしたら、奇妙な作品にいくつも出会えました。レンフィルムはつくづくすごいところだと実感した次第です。 濱口:山根さんの『映画を追え』でも非常に活劇的に描写されていました。「署名の変貌」の第一章で描かれているのは、サイレント映画時代の視覚的な優位というか、映画におけるモーション、ショットそのものを見せていくというような見せ方から、説話論的に再編成されていくさまです。この説話というのが「見る」ことをかえって遠ざけるものだし、でも、「見る」ことを遠ざけることによって、ある種の……。 蓮實:近さというか、接近があるのです。 濱口:説話が「見る」ことをある種抑圧することで観客の歓心を得る。そのことがかえってシネフィリーな、と言っていいのかわかりませんが、細部に着目した作家論の登場を準備する。一見対立しているかのように見える、それらの相補的な近しさがこれほどあられもなく語られている文章も珍しいと思います。その中で、私には説話と視覚的描写を同時に成し遂げた特権的な名前と思えたのですが、ミハイル・ロンムの『一年の九日』(1961)が挙げられています。私は、これは随分前に見ただけで、大胆な仰角や俯瞰の撮影、そして三人の男女がしゃべっているショットが忘れられないのですけれども、どのような物語であったかははっきり思い出せないというのが正直なところです。このとき、『一年の九日』を特に一つの中心に置かれたのはどういうことですか。 蓮實:それがまさに向こうで見た最後の作品ではなかったかな。ああ、これはやたらの映画ではないと実感しました。ただ、傑作だということにどのような言葉を費やせば理解されるかがわからない。あれはとても語りにくい映画でしょう。 濱口:そうですね。哲学的な対話として捉えようとしても、男女の三角関係の話と捉えようとしても、どちらからもはみ出してしまうような。 蓮實:それで悩みに悩んだ気持ちが非常に強かった気がします。 濱口:それこそ、「署名の変貌」では『イタリア旅行』と並べられるような形で挙げられていますけれども、『一年の九日』というのはある種のメロドラマだと思うんです。 メロドラマというのは本質的には、それこそ視覚の優位性を徹底的に抑圧する、説話の究極形態という気がしているんです。要するに、活劇みたいなアクション性は鳴りを潜めて、人物の微妙な、何かを内に秘めたような繊細な言葉や表情のやりとりで物事が進んでいくのだけれども、それはいわゆる心理主義的な映画とは違うということが、蓮實さんの文章の中に感じられる。それはウォルシュにおける『私の彼氏』のすばらしさと通じるものだとも思います。 続きは群像2024年12月号『ショットとは何か 歴史編』の刊行記念対談「「見ること」と「見逃すこと」」をぜひご覧ください。 関連記事:『ショットとは何か 歴史編』から「署名の変貌ーーソ連映画史再読のための一つの視角」の第一章の一部を特別公開。 関連記事:【濱口竜介『他なる映画と』】蓮實重彦が映画批評家たちは嫉妬を抱くべしと言った映画批評【群像WEB】はこちらから。
蓮實 重彥、濱口 竜介