石田三成が最高の布陣を敷いた関ヶ原で負けた納得の理由…「自分は正しい」が強すぎて人心掌握に失敗
■もうひとりの「しくじりリーダー」会津藩主・松平容保 幕末の混乱のなか、京都でテロが多発しました。江戸幕府は治安維持のため、京都にあって朝廷や公家の動向を監視し、西国全般に目配りする役職である「京都所司代」に加え、会津藩主・松平容保(かたもり)(1835~93年)に「京都守護職」、つまり京都を守る役職を与えました。 この役割を果たすには、会津藩の費用負担が莫大になるとともに、反幕府勢力の長州藩から恨みを買うリスクもありました。 そのため、会津藩の筆頭家老・西郷頼母(たのも)(1830~1903年)は、藩主・容保の京都守護職の就任に猛反対しました。 筆頭家老といえども、殿様の意向に反対するのは相当の覚悟が必要です。それほどまでに会津藩にとってはリスクが高いことだったので、西郷は猛反対したのです。 しかし、容保は、祖先である会津藩主・保科正之(1611~72年)が残した「会津家訓(かきん)十五箇条」の最初にある「何よりも幕府のことを第一に考えなさい」という教えに従い、反対を押し切って京都守護職に就任します。 ■筆頭家老の反対意見に従えば、会津藩の悲劇はなかった なお、その後、筆頭家老の西郷は、容保の方針に反対したことで、家老職を一度解任されました。 京都守護職就任後も、費用負担の大きさや反幕府勢力との対立を心配した家臣から、早めに京都守護職を退任するべきだとの意見がしばしば出ました。 ところが、幕府や天皇から絶大な信頼を得ていた容保は、その意見を受け入れなかったのです。 その結果、幕末の最終局面で、会津藩は長州藩などから恨みを買いました。会津若松城を舞台とした戊辰戦争の一戦である会津戦争では、多くの家臣やその家族を失う悲劇が起こります。 会津藩の武家の少年で構成された「白虎隊」の隊士たちが自刃したのは、その悲劇の1つなのです 一面、松平容保は、先祖に対して、幕府に対して、天皇に対して、ひたすらに忠誠を貫きました。その生き方は会津藩で大事にされてきた「義に死すとも不義に生きず」をまさに体現したものでした。 しかし、西郷頼母など家臣たちの意見を入れていたら、会津戦争での悲劇も免れていたはずです。 義理堅いリーダーとしての姿と、自分が属する組織を守るための部下の意見、とるべき道はどちらだったのかと深く考えさせられます。