嫌なことを本当に我慢しなくてはならないのか?...成功者は知っている「コンフォート・ゾーン」とは
「居心地のよい場所に甘んじるな」という教えは本当に正しいのか? 私たちは「自分を追い込まなければ成功できない」と吹き込まれ続け、ストレスまみれのワーカホリックになっていないだろうか。 【動画】2100年に人間の姿はこうなる コンフォート・ゾーンを出るべきなのか? それともそこに留まるべきなのか? 「人生をよく生きること」について考察してきたジャーナリストの話題書『COMFORT ZONE 「居心地のいい場所」でこそ成功できる』(クリステン・バトラー著・朝日新聞出版)の第1章「コンフォート・ゾーンに対する新しい考え方」より一部抜粋。 ■コンフォート・ゾーンの既成概念 「成功するためにコンフォート・ゾーンを出る」という考え方は、何ら新しいものではない。ただし、主流になったのは、2008年に経営理論学者のアラスデア・ホワイトが、「コンフォート・ゾーンから業績管理へ」と題した論文で研究結果を発表したときだ。 3つの研究を紹介した論文の中で、ホワイトはありふれたその概念を新しい切り口でこう明言した。「私たちは、コンフォート・ゾーンを飛び出して初めて、最高の業績を挙げられるのだ」 心理学者はコンフォート・ゾーンを、次のように定義している。「人が不安のない状態で活動する行動状態のこと。その領域では、たいていリスクを感じることなく、限られた行動を取り、一定レベルの力を発揮できる」。心理学者はまた、次の主張にも同意している。 「過度の不安は人を消耗させ、混乱させかねないが、ある程度の不安は成績の向上を促す役目を果たすことがある」 ただし、どの程度の不安はよくて、どの程度だと害になるのかは、かなりあいまいなままだ。 コンフォート・ゾーンについてのそうした見解はどれも、ホワイトの論文が発表された当時、目新しいものではなかった。ホワイトはただ、コンフォート・ゾーンについて心理学者が理解していたことを使って、「社会によるコンフォート・ゾーンの定義」を明確にしただけ。 ホワイトの大きな貢献は、人が最高の成績をあげるゾーンを定義し、それを「最適パフォーマンス・ゾーン」と名づけて、そのゾーンをコンフォート・ゾーンの外に置いたこと。 以来、この見解が何百という記事やネットミーム、人々を鼓舞する投稿やサウンドバイト[訳注:放送用に抜粋された言葉や映像]で拡散されている。インターネットには「最高の自分になりたいなら、コンフォート・ゾーンを出なくちゃいけない」という声があふれ、その主張がおおむねまかり通ってきた......今日までは。 では、よーく目を凝らして、異議申し立てを始めよう。 想像してみてほしい。あなたが「今とはまったく違う仕事をしたい」と夢見ているとしよう。それは今より努力が必要で、まるで畑違いの仕事かもしれない。そして、生まれてこのかた、「ほしいものを手に入れたいなら、コンフォート・ゾーンを出なくちゃいけない」と教わっていたとしよう。 その場合あなたは、コンフォート・ゾーンを出たことを一体どうやって知るのだろう? 教わったことに基づくなら、自分が進んで取っている不快なリスクや、喜んで耐えているストレスの度合いから知ることになる。 そういうわけで、あなたはつらい仕事を引き受け始める。そう、しっくりこない仕事を。リスクを取って、目標を達成するために、おそらくさらにお金や時間を投資するだろう。限界を超えるまで自分を追い込んで、「全力」を尽くすはずだ。 ストレスを感じても、自分にこう言い聞かせる。「これでいい! 努力していれば報われる。コンフォート・ゾーンに戻っちゃダメだ。あと少しの辛抱だからね!」と。 家族や友達と、なぜこんなに忙しいのか、いつかのんびりするために、今どんなに頑張っているかについて、話すこともあるだろう。いずれすべては報われる。そうに決まっていると。 時間が経つうちにラクになっていく仕事もあれば、キツいままの仕事もあるけれど、とにかく自分を追い込んでやり遂げる。でも、ほどなく疲れを感じ始め、やるべきことへのやる気がどんどんしぼんでいく。 しかも、やり遂げた仕事が期待通りの結果を出すとは限らないから、さらに無理をすることになる。「コンフォート・ゾーンからもっともっと離れないと、成功できないんだな」と。そうしてイヤな思いをしているうちに、ストレスと不安を味わうのがごく当たり前の在り方になっていく。 「生きることは必死で頑張ること」「恐れは人生に当然必要なもの」と思い込むまであっという間だ。ごくまれに身体が"シャットダウン"して休むしかなくなっても、「僕は怠け者だ」「役立たずだ」と感じていたり、なぜか悦に入ったり、罪悪感を覚えていたりする。