連続企業爆破事件、桐島容疑者の逃亡劇を49年前の紙面でたどる
1974~75(昭和49~50)年に起きた連続企業爆破事件に関与したとして指名手配されていた桐島聡容疑者(70)を名乗る男が2024(令和6)年1月29日、神奈川県鎌倉市の病院で死亡しました。警察が「桐島聡を名乗る男がいる」と情報を得た4日後のことでした。桐島容疑者は広島県福山市出身。尾道市内の高校を出て明治学院大に進学後、過激派のメンバーになったとされています。今回の「資料室発」では、事件発生から指名手配、その後の動きなどについて、中国新聞の紙面をたどります。 【当時の新聞紙面など 全15枚】 1975年4月19日未明、桐島容疑者が爆発物取締罰則違反容疑で指名手配されることになる事件が起きました。東京・銀座の韓国産業経済研究所の爆破事件です。同日の夕刊1面トップに「東京、尼崎で同時爆破/過激派が時限爆弾?/事前に決行声明文届く」の大見出しが出ています。東京の同研究所だけでなく、兵庫県尼崎市の企業も標的となりました。 記事には「昨年8月の三菱重工爆破以来一連の爆破事件で決行声明を出した『東アジア反日武装戦線』グループによる同時多発犯行の疑い」とあり、既に過激派グループの名前は認知されています。一連の爆破事件はこの時点で「7件、9カ所」で、実行グループに「狼」「大地の牙」「さそり」の三つがあることも明記されています。桐島容疑者が所属していたとされるのは「さそり」です。 事件から1カ月後の5月19日、犯行グループ8人が逮捕されました。「『爆弾組織』を本格追及/連続企業爆破 逮捕者は8人に/爆弾原料など押収」(5月20日付)の大見出しが朝刊1面トップに躍ります。8人のうち1人は逮捕後、自ら命を絶っています。 「任務分担はっきり/企業爆破グループ 5カ月の内偵・資料で推理」(5月22日付朝刊)に8人の細かい分担図が載っていました。この段階ではまだ、桐島容疑者は捜査線に上がっていないようです。 翌5月23日付朝刊「秘密アジトなど捜索/爆破事件特捜本部 押収品、詳しく分析」に興味深い記述が出てきます。「東京都内の下町にある〝秘密のアジト〟」の存在です。逮捕された容疑者の一人の「自宅から押収されたカギから判明したもの」です。このカギと合致する「秘密のアジト」の一つが桐島容疑者のアパートでした。 桐島容疑者の顔写真と名前が初めて紙面に出たのが「共犯の2学生を手配/爆弾製造・下見担当か」(1975年5月24日付朝刊1面)です。きっかけは「証拠品から出てきた2個のカギ」でした。先に逮捕された8人の関係先と合致しないカギ。「グループの〝連絡、爆弾製造のアジト〟に使われていた部屋の合いカギの疑い」が強まり「グループに接触していた2人の若い学生」として桐島容疑者らが浮かび上がりました。部屋からは「除草剤や薬品を調合する容器など、爆弾製造に関連する資料約300点」が押収されています。 指名手配を受けた社会面のサイド記事には「まさか息子が…」の見出しで、福山市の実家や近所の人のコメントが出ています。父親は「親から見ると立派な息子でした。最近の行動については離れているので、なんにも知らない。春休みに帰ったが、変わった様子はなかった」と言葉少なに語ります。近所の知り合いには「高校時代も過激な活動へ走るふうはなく、どちらかと言えば、目立たないタイプ」と見られ、教職員は「あんなことをするとは信じられない」とコメントしています。 また、東京のアパート周辺の反応「律儀・まじめな学生」(1975年5月24日付夕刊)で、近隣住民は「おとなしい感じの人でいつもニコニコ笑い、あいさつした(中略)爆弾犯人とはとても思えないもの静かなやさしい人だった」「朝早く出て帰りは夜の12時を過ぎていたようだ。友達もあまり来なかった」と語っています。管理人は「〝人の出入りが激しい〟などという他の住人からの苦情はなく、平凡な、まじめな学生でした」と〝秘密のアジト〟に驚いていました。 一方で、ほかの爆破事件の現場付近にいた人物と似ていたという証言もあります。「モンタージュ男は桐島?/目・口元そっくり/『三井』直後 近所でうわさ」(1975年5月24日付夕刊)です。「三井」とは、1974年10月14日に東京・西新橋で起きた三井物産爆破事件のことです。 三井物産爆破事件の直前、大きな包みを持って同社前の歩道を歩いている男、同社ビルの南口玄関から出る不審者が目撃されています。包みを持った男の目撃証言を基に作られたモンタージュ写真が75年2月に公開されていました。モンタージュの「長髪でギョロ目の男」は、逮捕された8人の中に似た人物がいなかったため、捜査本部は「ほかに共犯者がいるのではないかとの疑いを深めていた」ようです。 指名手配後の潜伏先では「福岡の実弟に電話連絡」(1975年5月30日付朝刊)があったことから、九州にいる可能性が浮上しました。この記事が掲載された翌5月31日午前、福山市の実家に電話がかかります。「桐島、岡山に潜伏か」(1975年6月1日付、朝刊1面)に、桐島容疑者から実家にかかってきた最後の電話のやり取りが詳しく出ています。 父親から福山東署へあった届け出によると、電話があったのは午前10時50分ごろ。父が「今どこにいるんだ」と聞くと「岡山にいる」と答えます。「ほんとうに岡山か。岡山のどこか」には「岡山だ」とだけ返答。さらに「一緒にほかの人がいるのか。○○(同時に指名手配された大学生)がいるのか」と聞くと「うん」と肯定。「ほかには」の問いに「女といる」と答えています。 「金を準備してくれ」と言う桐島容疑者に対し、父親は「自首しなさい。悪いことをやっているのは分かっているだろう」と説得を試みますが「組織の人がいるので、そうはいかない。組織があるから逃亡できる。国外に逃亡することも考えている」と答え、電話は3分で切れました。 最後の電話があったこの日の夕刻、女性の声で「お父さんですか。聡君は元気です。今、岡山にいます」と話す電話があり、一方的に切れたことも記されていました。 女性については翌日「関西なまり年上/桐島と同行の〝ナゾの女〟」(1975年6月2日付朝刊)の記事があります。福山東署の分析によると、電話の女性は口調などから桐島容疑者より年上、関西弁で、特に大阪なまりがあるとしています。公衆電話からの発信でした。 1975年当時、この事件が世間に与えたインパクトはどれほどだったのでしょうか。年末掲載の「国内10大ニュース」(1975年12月23日付朝刊)を見ると、第4位に「連続企業爆破の容疑者逮捕」がランクインしています。8位には「三億円事件、時効」が入っていました。1968(昭和43)年12月10日、東京都府中市で、現金輸送車が白バイ警察官の格好をした男に奪われた、あの事件です。「三億円強奪事件」とも呼ばれますが、容疑としては窃盗なので公訴時効は7年です。 指名手配から7年がたった1982(昭和57)年7月12日、桐島容疑者と同時に指名手配されていた元大学生が逮捕されました。東アジア反日武装戦線の「公判支援グループのメンバーを追跡中」に東京都板橋区で発見されています。人にまぎれやすい都会の方が潜伏しやすいのでしょうか。この時点で、一連の爆破事件で逃亡しているのは「桐島聡(28)の1人」だけとなります。既に、支援グループとの接触を絶っていたのかもしれません。 その後、桐島容疑者の足取りはつかめませんが、捜査強化月間や公開手配などで紙面に名前が出てきます。1985(昭和60)年11月1日付の「桐島ら5人を国内公開手配」では、顔写真とともに容疑内容などが掲載されていました。特徴には「広島なまりがある」とされています。一般的に知られる広島弁と、桐島容疑者の出身である福山市周辺の備後弁は、意外と違うので「広島なまり」という特徴では、発見されにくかったかもしれません。 結局、判明している限りでは桐島容疑者を名乗った男は、事件や潜伏生活について詳しく語ることなく、この世を去っていきました。 桐島容疑者と同時に指名手配され、過激派グループで行動を共にしていた元大学生は、懲役18年の刑期を終えています。もし、桐島容疑者が21歳で指名手配された直後に出頭し、同じ懲役18年だったと仮定すれば、30代のうちに罪を償い、社会復帰できたことになります。想定される刑期以上に、潜伏する生活はどうだったのか。また、メンバーが服役中に逃亡していた気持ちはどうだったのか。男が本当に桐島容疑者ならば、語ってほしかったと思うと、残念でなりません。
中国新聞社