倉田保昭 78歳のアクション俳優が明かす「ブルース・リーやジャッキー・チェンとの深い絆」
「最近ジャッキー・チェン(70)が来日した際に、『もう一本、一緒に映画をやりたいね』と話したんです。実現するために、毎日の身体作りは欠かせません。親友のサモ・ハン・キンポー(72)とも、毎日のようにメールして近況報告しています」 【画像】秘蔵カットを大公開! ジャッキー・チェンとの「貴重なツーショット」写真 道主を務める都内の空手道場『創武館道場』(世田谷区)で、こう話すのは国際的アクション俳優の倉田保昭(78)だ。 日本やアジアの多くの映画に出演し『和製ドラゴン』の異名を持つ。刑事ドラマ『Gメン’75』(TBS系。’75~’82年放送)の草野泰明刑事役でもインパクトを残した。’74年に上映された香港映画『帰って来たドラゴン』は、日本凱旋50周年を記念して現在、リバイバル上映中だ。同作で倉田がブルース・リャンと繰り広げたアクションシーンは、今見ても迫力十分。倉田が撮影当時の苦労や、単身香港へ乗り込んでからの役者人生を自身の言葉で振り返る。 ◆壮絶すぎる昭和時代の映画制作現場 「『帰って来た~』では、敵(かたき)役のリャンと二人で建物の壁の間を両脚を広げ10mほどよじ登ることになったんです。CGもない時代。足が滑れば、落下して大ケガするような高さでした。登るだけでもキツいのに、その体勢で立ち回りまでやらされた。アクションシーンの連続で、休憩時間はほとんどありません。撮影舞台となった小さな島にはホテルやレストランもなく、寝床は床の上。120本近く撮った映画の中で、一番キツイ現場でしたね」 空手、柔道、合気道で身体を鍛え、大学卒業後は飲食店でアルバイトをしながら俳優業をしていた倉田に転機が訪れたのは24歳の時。香港の大手映画会社『ショウ・ブラザーズ』のオーディションに合格し、悪役をこなせるアクション俳優として瞬(またた)く間にブレイクしたのだ。作品が上映された香港や東南アジアの国々で一躍スターになったが、台湾では何度か大変な目にも遭った。 ◆エキストラに突然殴られ 「撮影中に乱入した男に、いきなり日本刀で襲われたんです。幸いケガはありませんでしたが何事かと驚きました。エキストラから顔にナイフを突きつけられたり、突然殴り掛かられたこともあります。どうして何度も狙われるのかとスタッフに聞くと、当時の台湾では私が演じる悪役を、それまでは地元のヤクザのボスたちがやっていたらしいんです。仕事を奪われ、手下が脅しに来たのでしょう」 台湾の国税当局から税金未納の疑いをかけられ、香港に戻れなくなったこともある。当時、台湾では3ヵ月間の滞在を過ぎると所得税を払う決まりになっていた。だが映画会社のスタッフから言われた「滞在延長手続きをすれば大丈夫」という虚偽情報を信じてしまったのだ。 「税金未納で出国できず、知人に相談すると『車のトランクに隠れてフェリーで香港へ逃げろ』と言うのです。香港に戻れるならとズダ袋にくるまり密出国を図りましたが、フェリーに乗る直前の出国審査で見つかり台湾へ連れ戻されました。それからは、仕事を選ばずガムシャラに働き、現在の物価に換算すると約1億円もの税金を完納。1年ほどして、ようやく香港へ帰ることができたのです」 ’70年代の香港映画はブルース・リーが世界を魅了し、その後ジャッキー・チェンや『燃えよデブゴン』のサモ・ハン・キンポーが登場する。同時期に香港で活躍した倉田は、彼らとの絆(きずな)も深い。 「ブルース・リーは身体が大きくないものの、鋭さがありました。日本の武道もよく研究していていろいろと聞いてくる。身振り手振りを交えながら武道談義を長時間したことを覚えています。彼の映画でヌンチャクを使うシーンがありますが、琉球古武術で使う本物のヌンチャクをプレゼントしたのは私です」 ブルース・リーが演技をしていた横で、スタントマンをしていた無名の男性がいた。10代のジャッキー・チェンだ。 「『酔拳』が大ヒットして20代でスターになりますが、こんなに格好いい俳優だったのかと感激しました。ジャッキーは天才。子供のころから中国武術の修行をして、演技、監督までこなしてしまうんです。映画『七福星』で共演し、今でも『またやろう』と話しています」 香港でアクションスターへの階段を駆け上がった倉田は、今の若者へ「無理は禁句」の言葉を贈る。 「若い人には日本に宝物は落ちていないから海外へ行きなさいと話します。一人で知らない世界に飛び込めば苦労するけど、その分、何かをつかむ可能性はある。私の『今』があるのも、若い時に香港へ一歩を踏み出したからです」 日本を飛び出した『和製ドラゴン』は、78歳の現在も進化を続けている。 『FRIDAY』9月27日・10月4日合併号より
FRIDAYデジタル