なぜ日本人は幽霊が大好きなのか。“日本最初”の幽霊は誰? 初めて幽霊画に登場した歴史上の人物とは?
異界から来る妖怪と現世に怨念を残す幽霊
中世には「百鬼夜行(ひゃっきやこう)絵巻」「付喪神(つくもがみ)絵巻」「土蜘蛛(つちぐも)草紙絵巻」など、妖怪が出てくる絵巻物が作られていますが、これらの作品で描かれているのは幽霊ではありません。 よく幽霊と妖怪を混同されることがありますが、幽霊は現世に怨念を残した死者があの世に行けなくて出るもの。必ず人間の姿をしています。一方、妖怪はあの世とは違う異界から来ているので、獣や器物などの形で現れたりするのです。 先ほどの「北野天神縁起絵巻」からだいぶたちますが、岩佐又兵衛という絵師が江戸時代初期に手掛けた「山中常盤(やまなかときわ)物語絵巻」には、平家討伐のため奥州へ下った牛若丸を訪ねて旅をしていた母の常盤御前が盗賊に殺され、牛若丸の夢枕に立つ、というシーンが描かれています。 この常盤御前はまさに幽霊で、真っ白な装束で「私の復讐をしてください」と伝えるのですが、これが幽霊として描かれた二つ目くらいじゃないかと思っています。 ただ、もし「幽霊画」というジャンルを立てるのであれば、画題として単独で幽霊が描かれていなければなりません。では、最初に幽霊画を描いたのはいつ、誰なのかというと、これは江戸時代中期に京都で活躍した円山派の祖、円山応挙だといわれています。
「百物語」を盛り上げた幽霊画の始祖・円山応挙
応挙はいわゆる美人顔の足のない女の幽霊を描き、後進に大きな影響を与えました。ただ面白いことに、世の中に「応挙の幽霊画」と呼ばれるものは数あれど、実は現存する作品の中で真筆といわれているのは二つのみなのです。 一つはカリフォルニア大学バークレー校美術館に寄託されている「幽霊図」、もう一つは弘前の久渡寺(くどじ)にある「返魂香之図(はんごんこうのず)」。 前者は応挙のサインも入っていて、私も江戸東京博物館に来たときに見ていますが、応挙筆に間違いはないと考えています。後者は年に1回、旧暦の5月18日に当たる日に1時間だけ公開されています。こちらの方がさらに出来がよいですね。 応挙の幽霊画が有名なので、応挙の落款があるもの、応挙筆と称するものは世の中に何十とあります。間違いなく、応挙のものではない。でも所蔵するお寺では応挙といっているのだから、それはそれでいいと思います。幽霊というのもある意味で信仰と共にあるものですからね。 そもそも、なぜ応挙の幽霊画が単独で掛け軸に描かれたかというのは──これは私が勝手に想像しているだけで根拠はあまりないのですが──江戸時代の出来事を調べたら、ちょうど応挙の活躍した江戸中期の安永年間(1772~81)に、商人クラスの人々を中心に「百物語」という怪談会が大流行していたんです。 仲間を集めて怪談を1話ずつ披露しては、別室に立てた100本の蠟燭(ろうそく)を1本ずつ消していくというもので、100本目が消えた時に怪が起きる、という。 それで、恐らくその会を主催した会主の一人が「床の間用に何か幽霊の絵を」と応挙に頼んで描いてもらったんじゃないか。それに人々はびっくりしたんでしょうね。それまでの幽霊には美人という定番もなかったし、足のない幽霊もいなかったわけですから。 定番を作ったのは応挙です。死装束の女性はキリッとしているけれど、見方によっては恨みが残っているのか、それともただ美しく微笑んでいるのか。 面白いのは紅をさしていること。死後に湯灌(ゆかん)をして死化粧をした、そのままの姿かなとも思えます。この絵が大評判になって、次の会主が「今度は他のヤツに描かせて、あっちの会主をびっくりさせてやろう」という感じで、競い合って絵師たちに幽霊画を注文した。私はそう考えています。
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