なぜ周囲の反対を押し切って定子を内裏に戻そうとしたのか…一条天皇が当時では珍しい「純愛」を貫いたワケ
■道長にとって大きな悩みの種 むろん、そういう一条天皇は、近い将来、長女の彰子を入内させたいとねらっていた道長にとっても、大きな悩みの種だった。実際、道長が手を打つ前に、一条が定子に皇子を産ませることになれば、皇子の外戚になる伊周や隆家ら中関白家が復活して、道長の権力基盤を揺るがすことにもなりかねない。 一条が常識外の愛情を定子に注いでいるからこそ、道長はまだ幼い彰子の入内を急ぐことになったのである。もっとも、彰子は入内した長保元年(999)には、まだ数え12歳にすぎず、すぐに懐妊する可能性はないといってよかった。 倉本一宏氏はこう書いている。「平安中期の醍醐から後朱雀までの十人の天皇のキサキのうち、初産年齢がわかる十四名について調べると、彼女たちの入内年齢は、平均して十六・四歳、最低では十二歳(彰子)という若さであるのに、初めて皇子女を出産した時の年齢は、平均すると二十一・四歳であり、最低でも十九歳に達しないと出産し得ていない」(『増補版 藤原道長の権力と欲望』文春新書)。 それでも、あえて「子供」の彰子を入内させたのは、定子にしか目を向けない一条天皇にくさびを打ち込み、プレッシャーをかけるためだった。そして、道長は前代未聞の「一帝二后」を推し進めて、彰子を定子とならぶ一条天皇の后にする。だが、それでも定子が没するまで一条天皇の心は動かなかったのである。 ---------- 香原 斗志(かはら・とし) 歴史評論家、音楽評論家 神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。 ----------
歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志