農家の視点で戦争を語り継ぐ 佐賀市の船津丸さん 父は中国で戦死、声押し殺し涙した母
佐賀市で米や麦、大豆など1・6ヘクタールを栽培する船津丸守さん(85)は、農家の視点で戦争の語り部をする。戦死した父の手紙や日記を全て書き起こした。戦争と農業に関する短歌や俳句を詠み、戦争を知らない世代への継承を続ける。 終戦時は東与賀国民学校の1年生だった。終戦時のラジオ、空襲で馬を連れて川へ向かう大人たち、村長が弔辞を読んだ父の葬儀……。6歳の心に刻まれた記憶は忘れたことはない。 父の鷹次さん(享年35)は1944年6月に出兵した中国・山西省で戦死した。 軍馬の調教にたけ、少年兵の指導役をしていた父。家に泊まりに来た少年兵と酒を飲み酔って軍歌を歌っている姿が目に焼き付いている。「泣くな嘆くな必ず帰る」の一節が、幼心に残っている。 父の葬儀では「誉れの戦死」「敵討ちをしろ」と村長らが守さんや母・レイさん(享年98)に告げた。当時、戦争の恐ろしさを考えたこともなかった。「『非国民』となるから悲しめなかった。ただ、私を寝かした後、母が毎晩声を押し殺して泣いていた」と守さんは明かす。布団の中で、胸が締め付けられる思いで母の泣き声を聞いていた。 母と祖父母が農地を耕した。守さんも国民学校4年生から本格的に農業を始めた。終戦前後は食料統制されていたため国に米を拠出していた。終戦後は都市から親戚らが疎開に来たため、いつもおなかが鳴っていた。白米を腹いっぱい食べられたのは10歳を過ぎた頃だったという。
事実を伝えなければ、再び戦争は起きる
戦争の語り部をする佐賀市の農家・船津丸守さんは、国民学校に通っていた頃、秀才で美術や工作も得意だった。教師から進学を勧められ、反対する祖父に母は「農家を継がすから高校だけは出してほしい」と頼み込んだ。当時1カ月の授業料は1000円、米は60キロ3000円。姉が働き学費を工面してくれた。 父の遺品は、同僚が届けてくれた。戦死する1週間前まで毎日つづられた日記には、4人を殺害したことや慰安婦のことまで淡々とつづられていた。 守さんは100点以上の遺品を一つずつ丁寧に梱包(こんぽう)し、保管してきた。60歳を過ぎて守さんは、その日記や手紙をパソコンを習って全て書き起こした。何十枚にも上ったが、父の思いを知る作業は苦ではなかった。日記には母との最後の別れまで小説のように書かれているが、悲しみなどの感情は記されていない。 4年前から学校や図書館などへの語り部活動を始め、遺品の展示や戦争遺族向けの冊子の編集もする。今年は仲間と戦争の朗読劇も手伝う。 農業は妻と営農に励む。3人の子どもは別の仕事に就いているため、守さんが今も農業経営者だ。技術を工夫し、農機の修理は自前。当面の引退は考えていない。 感情をあらわにせず、趣味の俳句や短歌に思いを託す。その句は定評がある。守さんは「教育で人は大きく変わる。戦争の事実を伝えなければ、再び戦争は起きる」と確信する。戦時下の記憶は本当は話したくない。それでも守さんは父の遺品を継承する使命があると考えている。 (尾原浩子)
守さんの俳句・短歌
戦没の父を想えばはるかなり暗い人だと言はれ育ちぬ 農に生き農に育ちて農に死す わが生涯のありがたきかな 書を曝す父の戦記のびっしりと故郷のことも僕のことも 戦地より届くはがきのカタカナに二重線引く検閲の跡 日の丸も父も貫く銃弾の痕なまなまし戦記とともに 米作り継いでくれとは言えぬ父 老兵の心の傷が口閉ざす
日本農業新聞