【棋聖戦第2局】山崎八段のAIに依存しない独創的な戦法に対して見えた藤井八冠の強さ
桂馬を打った
途中、立会人の中村修九段(61)がABEMAの中継に登場。1996年、棋聖戦の第5局で副立会人を務めた際のエピソードを紹介した。この対局で、当時、七冠を独占していた羽生善治九段(53)が三浦弘行九段(50)に敗れ、タイトルの一角を失った。 対局前夜、三浦九段が「部屋の冷蔵庫の音がうるさくて寝られない」と訴えてきた。そこで中村九段が「部屋に赴いて冷蔵庫のコードを抜いて解決したんです」とのこと。大一番を前にどうしても神経質にもなる棋士は、意外にも簡単なことに気づかないのかもしれない。 山崎はAI(人工知能)に依存しない独創的な将棋で知られる。彼が棋聖戦の挑戦権を得るまでに勝ち上がった4局について中村九段は「桂馬を打ったことが共通点だった」と分析した。 そのうえで「1局目はそういう山崎さんらしさが出なかったが、本局は桂馬を『5三』に打った。じっくりした流れになり、後手ペースかと思ったが、これに対して藤井さんが『3五歩』としたのはさすが。これでゆっくりさせずに変えた」と解説した。
積極的に分析した山崎
山崎も藤井陣に飛車を打ち込んで2枚の桂馬で脅かし「詰めよ」の状況を作ったが、藤井は遠方から山崎玉を脅かす馬を大きく働かせ、王手を切らさずに迫ってゆく。 午後6時39分、111手目の「4四金打ち」の王手を見た山崎が「負けました」と投了。山崎は先に持ち時間4時間を使いきって、「1分将棋」に追われていた。 山崎は「想定外だった」と藤井が話した向かい飛車や序盤について「後手番で前日まで悩んだ。昔に似た形をやったので工夫してみた。序盤、昔を思い出して『4五』に桂馬を跳ねたけど、もう少し後のほうがよかった。玉が薄いままで攻めたのを咎められた。『3五歩』と突かれてみると難しかった」などと積極的に分析しながら対局を反省していた。
関西将棋は「その場勝負の風土が」
山崎は森信雄七段(72)の門下の内弟子だった。1995年1月の阪神・淡路大震災の際は、兄弟子の船越隆文さん(当時17=奨励会2級)が兵庫県宝塚市で自宅アパートの下敷きになって死亡するという悲劇があった。 6月13日付の毎日新聞によれば、この時14歳だった山崎は、奨励会のことを心配する発言をした。これを師匠の森七段に「将棋のことしか考えていないなら別の師匠を見つけろ」と激怒されて破門となり、故郷の広島に帰らされた。後に謝罪して再び受け入れられたという。 前回も記したが、名伯楽の森七段は山崎と同じく広島県出身で「羽生の最強ライバル」と目された夭折の天才棋士・村山聖・贈九段(1969~1998)の師匠でもある。 そんな山崎が毎日新聞の取材に、かつて羽生世代が東京で研究に没頭していた頃、関西の将棋界は「その場勝負の風土が色濃く残っていました。研究するなんて恥ずかしいことだ、みたいな」と答えているのが興味深かった。当時、筆者は将棋取材をしていたわけではないが、「きちっとしとるやつは肌が合わんわ」で「場当たり好き」の気質は関西住人としてわかる。今の関西将棋界がどうなのかは知らないが。 前述の坂田三吉は「東京の関根はん(関根金次郎・十三世名人=1868~1946)には負けん」という気迫で奮戦していた。プロ野球の阪神・巨人戦を見ていても、「東京に負けてたまるか」といったファンの対抗心は昔ほどではない。長い関西経済の地盤沈下で多くの関西人が東京に移住したこともあるが、プロ野球にせよ、将棋にせよ、そういう雰囲気が昔より薄まったようだ。 棋聖戦の第3局は7月1日、愛知県名古屋市の「亀岳林・万松寺」で行われる。藤井がどうしても咎めきれない「山崎ワールド」で、まずは一矢を報いてほしい。
粟野仁雄(あわの・まさお) ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に『サハリンに残されて』(三一書房)、『警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件』(ワック)、『検察に、殺される』(ベスト新書)、『ルポ 原発難民』(潮出版社)、『アスベスト禍』(集英社新書)など。 デイリー新潮編集部
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