上申書(10月9日)
松本清張の「上申書」は妻殺しの疑いをかけられ、被疑者となった男の物語だ。取り調べを重ねるたび「自分が殺した」「殺害したというのは嘘[うそ]だった」と供述を二転三転させる。舞台は昭和の戦時下。時に拷問を受ける過酷な尋問が背景にあった▼作家の北村薫さんは清張の短編でベスト5に入るとたたえた。〈官憲の取り調べの恐怖が惻々[そくそく]と迫り、心に食い入っている〉と。だが、事実をねじ曲げられるのは、創作の世界だけではないらしい▼逮捕からの58年は恐怖と絶望の日々だったに違いない。静岡県一家4人殺害事件で、検察の控訴断念により、袴田巌さんの無罪が確定する。長い間自由を奪われ、死のふちに立たされたゆえだろう。拘禁症状が残り、意思疎通は難しいという。実姉の温かな支えがあってこそ、辛苦を耐え抜くことができた。人権をしいたげた「罪」に言葉を失う▼清張は終戦直後に起きた怪事件の真相にもメスを入れた。逮捕された画家が無罪を訴え続けて亡くなった帝銀事件、戦後最大の冤罪[えんざい]事件と呼ばれる福島市の松川事件―。生きていれば、袴田さんの一件をどう描いただろうか。タイトルは浮かんでくる。断たれぬ権力編「けものみち」。<2024・10・9>