「マネージャー」としての役割を果たし、「プレーヤー」の成長を喜ぶ。老いとBA.2(前編)【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】
■「プレーヤー」から「マネージャー」へ、変遷する役割 42歳を迎えるにあたって、これといった抱負などをここで述べるつもりもないが、自身の「老い」と共に、果たすべき役割が移り変わってきたことを振り返るには良い機会かな、とも思い、今回のコラムの筆をとった。 研究室生活を始めた大学4年生の頃や、京都に移った大学院生の頃はもちろん、自分の研究が100%。しいて言えば、周囲との交流から生まれた物事や私生活へのエフォートが5~10%残されているくらいで、生活と頭の中のほぼすべてが、自分の研究のことだけで占められていた。 ポスドク(博士研究員)の期間も、基本的にそれは変わらず。実験スキルも上達し、自分の好きなことだけに没頭できる、いわゆる「プレーヤー」としての全盛期が、一般的にはポスドクの時期なのだと思う。しかし私の場合、ポスドクとしての期間が3ヵ月だけだった。また、「プレーヤー」として実験をしたりすることに実はあまり喜びを見出せていない、ということに気づき始めたのもこの頃だったように思う。 少しずつ私の中でのエフォートバランスが変化してきたのは、特定助教から助教になった頃である。自分の研究費でポスドクを雇用するようになり、「チームをマネージする」ということが私のエフォートの中心になる。俗に言う「プレーヤー」から「マネージャー」への転身、である。 やがてそのマネージの対象が、雇用しているポスドクだけではなく、指導を担当する学生も含まれるようになる。東京に異動し、自分の研究室を主宰するようになると、マネージするのは人だけではなく、研究室の設備やルール、そして、研究室を運営するための費用などまでが対象になる。中小企業の社長のようなものである。 そしてコロナ禍。G2P-Japanを発足・主宰するようになると、マネージの対象は、北海道から九州まで散らばる、それぞれの研究室を運営するPI(研究者主宰者)たちとの連携も含まれるようになる。初めはほんの数人で始まったG2P-Japanは、今や10人以上のPIたちが連携し、総勢80人以上のメンバーが参画する大所帯となっている。研究の世界に足を踏み入れたばかりの20歳そこらの頃からすれば、これはもはや想像をはるかに超えた世界である。