【追悼】「石川さん泣き虫よね」八代亜紀さんが”友情”でコミュニティFMにノーギャラでも駆け付け…
《芸能リポーター・石川敏男の芸能界“あの出来事のウラ側は……”》 ショックだ……。 昨年12月30日に膠原病で休養中に亡くなっていたことが分かった八代亜紀さん。まだ73歳だ。病気は昨年8月に公表され知っていたが、まさかという気持ちが大きい。 【追悼…】「ジュリーと秀樹は凄かった」…追悼・八代亜紀さんが本誌に語っていた「あの大物歌手たち」との思い出 一言でいえば、八代さんは本当に“裏表のない人”だった。 「両親を食べさせるために」 と、芸能界の道に進んだ人生。 「いろんな主人公になれて歌えるのが楽しい。その人の気持ちになれるから」 と話していたことを思い出す。 14~15年前に、友人が社長をする東京・江東区のコミュニティFMである『レインボータウンFM』で『勝手に演歌応援団長』という番組を始めるときに、第1回目のゲストとして出演してくれたのが八代さんだった。 オレもそうだが、八代さんも含め、出演者はみんなノーギャラ。それでも“友情”を大切にしてくれて、喜んで駆け付けてくれた。 その後、水森かおりさん、市川由紀乃さん、山本譲二さんら多くの歌手の方にご協力いただいてきたが、八代さんに出演していただいたことは大きく、番組の価値を上げてくれた。少し形が変わったが、今も番組が続いている背景にあるのは八代さんの存在が大きかったと思っている。 そんな八代さんにオレは突然 「石川さんは泣き虫なのよね」 と、言われたことがあった。 なぜかというと、映画『極道の妻たち・赫い絆』(’95年公開)の鳥取・境港市でのロケに、主題歌『とおりゃんせ』を歌った八代さんも出演していた。そのとき、主演の岩下志麻さんから八代さんは、 「石川君がまだ若い宣伝マンだった頃、私を担当することになってロケに行ったの。そのとき、“寂しくて帰りたい”と泣いてたのよ」 と、志麻さんから聞いたそうだが記憶には無い(笑)。だが、八代さんの中には 「石川さんは泣き虫なのよね……」 という記憶が、ずっと残っていたね。 そしてなんと言っても思い出深いのが、都はるみさんと静岡県・つま恋でのジョイントコンサートだ。 台風が近づいている中でのライブ。はるみさんは着物で八代さんはドレスだった。空模様がどんどん怪しくなっていく中でも続けられた。 そして、八代さんが『雨の慕情』を歌いだした頃に、雨は豪雨に変わっていった。 「雨 雨 ふれふれ……」 屋根のないステージも会場のファンもみんなずぶ濡れ。歌に合わせてか、どんどん雨は強くなる。 「ファンの方には気の毒でしたが、こんな雨の中で歌ったのは初めて。(はるみさんと)二人には、とてもいい思い出になりました」 と言っていたが、その雨に負けないくらい、ファンの熱狂はもの凄かった。もう42年も前の出来事だ。 そんなファンや多くの芸能人から愛された八代さんだが、3年前には27年間の夫婦生活にピリオドを打っていた。結婚は八代さんから 「お嫁さんになってもいいよ」 という言葉だったらしい。 お相手のMさんは歌手を目指していたが、挫折し故郷に帰っていたところ、 「後輩を育てたらどうですか」 と、声をかけて事務所に連れ戻したのが、八代さんだった。マネージャーとしてサポートし、八代さんの独立後には、一緒に事務所を立ち上げた。 そして結婚。5年間の極秘交際を経て、ハワイで挙式。八代さん44歳、ご主人は40歳だった。 離婚理由を聞こうと八代さんに何度か電話したが、結局は連絡が取れずじまいになっていた。Mさんは 「八代の50周年まで一生懸命にやってきました。思い残すこともないし、もういいでしょう。お互いの道に行こうと決めました」 と言っていた。そのときは、それで納得しようと思っていたのだが……。 病気に勝ち 「また再び歌いたい」 という八代さん思いは途切れてしまった。だが、八代さんの優しい心根は、芸能界に思い出として残されていくのだろう。ああ、合掌。 文:石川敏男(芸能レポーター) ‘46年生まれ、東京都出身。松竹宣伝部→女性誌記者→芸能レポーターという異色の経歴の持ち主。『ザ・ワイド』『情報ライブ ミヤネ屋』(ともに日本テレビ系)などで活躍後、現在は『めんたいワイド』(福岡放送)、『す・またん』(読売テレビ)、レインボータウンFMにレギュラー出演中
FRIDAYデジタル