ルイス・ハミルトン、多才なF1チャンピオンの情熱と未来──グローバル・クリエイティビティ・アワード2024
F1で7度もチャンピオンに輝いたルイス・ハミルトンが2024年、あらゆる分野で時代を切り拓く先駆者たちを称える「GQ Global Creativity Awards」を受賞! 今年はメルセデスでの最終年、来年からはフェラーリでさらなる高みを目指す。ファッションや映画といったレース以外の活動にも注目だ。 【写真をみる】「私のファンは本当に忠実です」と語るルイス・ハミルトン
◾️“その後”の準備 ルイス・ハミルトンはF1での18に及ぶシーズンの合間、しばしばレジェンドと呼ばれる人たちと交流を持ってきた。レースとは直接の関係はないが、ハミルトンが史上最多勝のF1ドライバーとして君臨するあいだに親しくなっていった、映画や音楽、そしてファッションといった業界で名を馳せる人たちのことだ。それに加え、F1以外のメジャースポーツ界の重鎮とも会った。そのうち彼は気づいた。特に引退を間近に控えたアスリートたちと話していると、“その後”への準備をどうするか、ということに話題が及ぶと。 つまり、スポーツの後の人生のことだ。「元男子プロテニス選手のボリス・ベッカーからセリーナ・ウィリアムズ、さらにはマイケル・ジョーダンまで、大勢の素晴らしいアスリートに話を訊きました」と、現在39歳のハミルトンは言う。「すでに引退していたり、あるいはまだ競技を続けていたりする偉大な選手たちと話すと、今後が見えない恐怖、次に起きることへの心構えができていないと感じました。彼らの多くはこう言っていました。『引退を早まった』とか『長くやりすぎた』『キャリアが終わったときは何も先のことを考えていなかった』『それまでずっとスポーツのために生きてきたから、人生が崩れ落ちていくようだった』と」 「なかにはこう言う人もいました。『その先の計画もなかったし、引退後はすっかり途方に暮れてしまって、ちょっと大変だった。ぽっかりと穴があいたような空虚さがあって、それをどう埋めればいいのか見当もつかなかったし。最初は急いで埋めようとして、間違ったことをしてしまった。何度か失敗するけれど、最終的にはどうすればいいかわかるようになる』って。時間がかかった人もいれば、そこまでかからなかった人もいた。でも、不意にこう思ったのです。『それなら、どうすればそうならずに済む?』って。それで他に熱中できることを真剣に探すようになりました」 まだ幼い頃に両親が離婚し、8歳でレーシングカートをはじめたハミルトンは、人生の前半をひとつのことに突き動かされるようにして過ごした。「サーキットでは唯一の黒人の子どもでしたし、学校でも苦労しました。主な原動力となったのはいつも、受け入れてもらうことでした。『レースに勝てば、この世界で受け入れてもらえる』と思ったのです」。そうした姿勢は、ロンドン北部の公営団地で労働者階級の家の子として育ったハミルトンを、モータースポーツ界で想像を超えた高みへと導いた。 ハミルトンはF1で7度ワールドチャンピオンに輝き、ミハエル・シューマッハと並ぶ史上最多記録の歴代1位タイとなった。優勝回数は103で、メルセデスでは8度のチームタイトルを獲得した。生活のすべてをかけてF1ドライバーとしてのキャリアを積んできた彼が、クリエイティブな分野への自身の情熱を心地よく表現できるようになったのは、後になってからだ。そうすることで、ドライバーとしてのキャリアを損なうどころか、サーキットでのパフォーマンスを向上させ、人生の後半戦に向けてより目的意識を高め、生きがいを見つけられるかもしれないと考えたのだ。 「F1の世界に入りたてのころは、起きたらすぐにトレーニングをして、それからひたすらレースをして、他には何もしませんでした。そんな余裕はなかった。でもそのうち、働きっぱなしでは幸せにはなれないと気づきました。人生にはバランスが必要だと。そして、実は自分は幸せではないとわかったのです」。ひとつのことに固執した生活はハミルトンを締めつけていた。「すごく満たされない気持ちがありました。自分にはもっとできることがあると思っていましたから。クレイジーですよ。ずっと『自分はF1にいる。夢を叶えて、ずっと到達したかった場所にいて、しかもそのトップで、チャンピオンの座をかけて戦っている』と自分に言い聞かせていました。でも、楽しくはありませんでした」 その時期、ハミルトンはロサンゼルス在住の人と交際をはじめ、生まれて初めてクリエイティブな業界の刺激的な人々と接した。それを機にハミルトンは、可能性の種をまき、自己表現とクリエイティブな実験という新しい波を引き入れた。まずは髪型やタトゥー、そしてジュエリーを通じて。それから音楽やファッション、映画製作と続いた。その後10年間、ハミルトンはレーシングドライバーのあり方や、レース・シリーズのために世界を飛び回る間にドライバーがすることに対する先入観を着実に打ち破ってきた。「いつも頭が働いています」と、ロンドンで私の向かい側に座った彼は言った。「ものすごく鮮明な夢を見ます。起きたら書き出さないといけないくらい。自分がデザインしているもののビジョンを見ます。それが音楽のときもあって、頭のなかで曲が鳴っていることもある。起きて下の階に行って、ピアノで弾いて録音する。それが、自分が発表するものの一部になるのです」 ハミルトンは、自身が立ち上げた作曲キャンプを生きがいにしていて、少なくとも年に2、3回、彼の夏休みと冬休みの間に開催している。そこにプロデューサーやソングライターのチームを集め、シーズン中に収集してあれこれ考えていたサンプルやテーマ、そして歌詞をまとめる手伝いをしてもらうのだ。 ハミルトンが趣味に没頭することは、必ずしも歓迎されてきたわけではない。「自分の創造性を追求して、自己表現の方法を模索している間、メディアから多くの反発を受けました」と彼は言う。「こんなのはレーシングドライバーの振る舞いではない、ドライバーはこんなことはしないと、批判されました」 ハミルトンは、人々の意識を変えようと「飛び抜けて優れたパフォーマンスを見せるため、少しずつ、人よりも多く努力してきました」と言う。この点に関して、F1を前進させようとするモチベーションが、ハミルトンには2つある。1つ目はF1の保守的で型にはまった期待を打ち破るため。2つ目は自身のキャリアの後半戦に備えるためでもある。彼は言った。「引退したら、きっぱりやめて幸せになりますよ」 「でも難しいのは、何でも全部やってみたいと思っていることですね」とハミルトンは笑いながら言う。「すごく野心家なんです。でも、そんなことはできないともわかっている。ああ、“できない”というのは違いますね。私はその言葉を信じていませんから。何かを極めるには1万時間が必要だということはわかっています。現に、私はレースにそれくらい時間をかけましたから。いろいろなことをすべてマスターするには時間が足りません」 だとしたら、何がレースの代わりになるのでしょう? と私は尋ねた。「そうですね」と彼は言った。「映画とファッションだと思います」 ◾️映画界のハミルトン ハミルトンは現在、ブラッド・ピットや『トップガン マーヴェリック』の制作チームとともにプロデュースしているハリウッドの大作映画に取り組んでいる。チームには、ジョセフ・コシンスキー監督やプロデューサーのジェリー・ブラッカイマーなどもいる。控えめに言っても、史上最も期待されるカーレースの映画だと言われている。 幼い頃のハミルトンは映画が大好きだった。F1の世界に入ってからは、幼少の頃に観ていた映画の関係者に会うという信じられないような機会が多々あった。今回のハリウッド映画のプロジェクトのきっかけは、トム・クルーズだったという。 『デイズ・オブ・サンダー』以前からのレースファンであるクルーズは、約10年前、2014年の映画『オール・ユー・ニード・イズ・キル』の撮影現場にハミルトンを招待したいと突然連絡してきた。「アシスタントから電話があって、『トム・クルーズが撮影現場に招待してくれました』と言うのを聞いてすぐ、「撮影だって? もちろん行くよ。今ある予定を全部キャンセルしてくれ! って言いました」。イギリスの撮影現場で顔を合わせた日から、ハミルトンとクルーズは友情を育んでいった。レースの前後には、クルーズから励ましのメッセージが送られるようになったという。 ある晩、夕食の席でハミルトンはクルーズに、『トップガン』のロゴが入った腕時計を見せた。「『もし[トップガン2]をやるなら、用務員の役でもいいから出演させてほしい』と言いました」。当時はまだ、続編を作ることは話題にもなっていなかったが、実際に『トップガン マーヴェリック』の製作が決まると、クルーズはハミルトンをコシンスキーに紹介し、パイロットの一人としての役をオファーした。 しかしその頃、ハミルトンは2018年のタイトル争いのさなかにいて、フェラーリのセバスチャン・ベッテルと“ドッグファイト”を繰り広げていた。映画に参加するには、シーズン終盤の数カ月間のうち2~3週間は、撮影現場に行かなければならない。ハミルトンにもさすがに限界はある。「そもそも、演技のレッスンすら受けたことがありませんでしたからね」とハミルトンは言う。「自分のせいで映画を台無しにしたくありませんでした。それに、映画にきちんと向き合う時間がなかった。ジョセフとトムにそう伝えなければならなかったのは、辛かったです。完成した映画を観たときには、当然ですが後悔しました。あれは自分の役だったかもしれない!って」 このときはチャンスを逃したが、数年後、ハミルトンはZoom越しにコシンスキーとブラッカイマーとの打ち合わせをしていた。莫大な予算をかけた本格的なF1映画製作に参加しないかと二人に声をかけられたのだ。ハミルトンは必要なことを瞬時に察知した。「やるとしたら、“本物”の映画を作らなければならない、と伝えました。ファン層には2種類あると思います。生まれたときから毎週末に『グラン・プリ』の映画音楽を聴き、家族と一緒に観ていた昔からのファンと、Netflixでその映画を知ったばかりの新しい世代です」 ハミルトンは、その両者が満足できる映画にするのが必須であると念押しして契約した。「私の役割は異議を唱えることだと思っています。『こんなことはあり得ない』『本当はこうあるべきだ』『こうなる可能性がある』というように。レースが本当はどういうものなのか、そしてレースのいちファンとして何が魅力的で何がそうでないのか、アドバイスをしています」 昨シーズンのイギリスグランプリでは、かの有名なシルバーストン・サーキットで15万人以上の観衆を前に本物のレースを撮影した。今回のプロジェクトで最高だったのは、「シルバーストンで、ブラッドが実は根っからのレーサーだとわかったこと」だとハミルトンは言う。「彼には真の能力とスキルがあります」 それはどうしてか。「ずっとバイクが好きで、モーターレースもたくさん観てきたからでしょう。若い頃、私は自動車教習所で働いていました。レースやいろいろなところに出向くための資金作りのためです。企業は70人も引き連れてレースにやって来るのですが、コースの内側、つまりコーナーの頂点に向かって走るインサイドのラインの上に立つのです。単に知らないのです。でもブラッドは、コースのどこに立ったらいいかをわかっていました」 あるとき、ハミルトンと私はカーレースを題材にしたこれまでの長編映画について語り合った。『グラン・プリ』(1966年)、『栄光のル・マン』(1971年)、『フォードvsフェラーリ』(2019年)、『ラッシュ/プライドと友情』(2013年)などだ。私は彼に最近の映画は観ているのか、またどの作品がうまくできていて、どれが大きく外れていると思うかを尋ねた。「全部観ていますよ」と彼は答えた。それは、彼がいちファンだからというのもある。だが同時に、彼と彼が新たに立ち上げた製作会社ドーン・アポロ・フィルムズは、目を光らせておく必要があるからだ。 『フェラーリ』はどうでしたか? 「すごく良かったです」とハミルトンは言う。ハミルトンが2025年シーズン開幕と同時にフェラーリに移籍するという衝撃的な発表をして以来、やきもきしているフェラーリ・ファンにとっては心強いコメントだ。「ひとつは、フェラーリがきちんとフェラーリとして描かれていること。彼らが工場に到着し、歴史の一部を目にすることを想像して描いていること。当時のレースはクレイジーでしたからね。使われていたマシンも非常に危険でした。『フェラーリ』を観て、もっとうまくやれたと思うかって? もちろんです。カーレースを撮影するのは本当に難しくて、鑑賞したレーシングドライバーからアドレナリンが出てくるくらいの撮影ができた人はいないと思います。でも、この映画は最高傑作のひとつでしょう」 他のカーレース映画を打ち負かしてトップを狙おうと思っていますか? 「競争する気はありません」とハミルトンは言う。「でも、きっとそうなるでしょう」 ◾️ファッション界のハミルトン 映画に取り組む前は、服だった。2007年、ハミルトンは初めてファッションショーに参加した。「私は、有色人種は私と父だけというカーレースの世界から出てきました」と彼は言う。「ですが、ファッションの世界に行くと、そこにはいろいろな人がいて、多様性に富んでいた。すごく惹かれましたね」。ブレイズやタトゥー、ジュエリー、そして服というように、ハミルトンは何年もかけてF1の世界で、他のドライバーと自身の外見上の違いについて説明しなければならなかった。違うことをするたびに、何倍にも膨れ上がった注目を浴びた。トミー・ヒルフィガーと仕事をすることになったときもそうだった。 数十年にわたってF1に関わってきたヒルフィガーは、2018年から2020年にかけて、ヒルフィガーの名を冠したブランドのために5つのコレクションをデザインしてほしいとハミルトンに依頼したのだ。「インターンのようなことをし、裏方としてデザイナーたちと仕事をしました」とハミルトンは言う。「人任せにせず、本当に多くのことに携わりました。それからレースに出たのですが、心から自由だと思えました」 初めてのコレクションを祝うため、2018年、ハミルトンはシンガポールグランプリの前にニューヨークでのパーティーに向かった。「レース直前の週末でしたから、準備のことを考えると、あまりいい過ごし方とは言えませんね」とハミルトンは認めつつ、こう続けた。「シンガポールに到着後には、それまでで最高のラップを披露しました。その後は誰もが『こいつならやれる』と思ったはずです」 近年、ハミルトンのファッションへの関心は進化してきた。ただ服を着たい、デザインしたいというだけでなく、より大きな望みを抱いてファッション業界に影響を与えたいというのだ。ハミルトンは、F1やメルセデス、そしてそれ以外の場所でも、多様性を推進する取り組みを進めてきた。それは、自分がいる空間に同じような人ばかりが集まっている現実を打破しようという試みだ。そして今は、そうしたことを可能にする影響力と、そう、彼が愛するインディーズのファッションブランドを支援するための資金を集める方法を考えている。 「若者による新進気鋭の素晴らしいブランドはたくさんありますが、どこかの段階で大きな組織に食われてしまう。そして大抵の場合、自分たちが立ち上げた会社の大部分を失うことになる。テーブルを囲んで話をすることが重要です。でもそれは、簡単ではありません。LVMHのCEO、ベルナール・アルノーと一緒に話し合おうっていうのですから」 やってみましたか? と私は尋ねた。 「正直なところ、自分で多様性に富んだLVMHを作ることを夢見ています」とハミルトンは語る。「今が、本当にそれができる時代かどうかはわかりません。でも構想はしています」 第1幕は打倒シューマッハ、第2幕は打倒アルノー。頭に浮かんできたアイデアを夜中にメモして、それを実行に移せばいいですよ、と私は彼に提案した。 ◾️F1のハミルトン ハミルトンは2024年のはじまりを「おそらく人生で最もエキサイティングなとき」だと説明する。その理由は、これから先の2年のことを並行して考えることができるのはこれが初めてだから、というのが大きい。「翌年のことを考えてワクワクしながら1年をはじめるのは初めてのこと」だそうだ。彼の人生はこれまでずっとシーズンで計られてきた。1つのチーム。1台のマシン。1つのシリーズ。旅行や作曲キャンプ、そしてその他の関心事を詰め込む夏休みが1回。「みんなにいつも聞かれますよ。5年後の自分はどうなっていると思いますか? って。これまでは、そこまで先を見通すことができませんでした。でも今は、もう少し先まで描けるようになった。これからの2年で、すごくクールなことが起きるでしょう」 そこで彼が口をつぐんだので、私は微笑んで言った。他にもまだあるのですか? ハミルトンがF1界に衝撃を与えたのは、私たちが会話を交わした数週間前のことだった。長年在籍したメルセデスを離れ、2025年シーズン開幕から最も有名なライバルであるフェラーリに移籍すると発表したのだ。つまり彼は事実上10年以上にわたって“結婚”し、勝利という勝利すべてを手にしてきたチームで2024年シーズンを戦うことになる。その一方で、“離婚”した翌日に備えて、次の関係の準備を万全にしておく必要がある。そのためには、今年と来年の両方を頭の中で同時に考えていかなければならない。レースドライバーにとっては稀有な状態だ。 「メルセデスとはこれまで素晴らしい年月を過ごしてきましたが、それをさらに上回る最高の1年を迎えるためには、どうすればいいかということに集中したいです。まわりの人たちとどう関わっていくかということもそうです。移籍のニュースを喜んでくれている人もいれば、そうでない人もいる。どうやって彼らをこの旅路に連れ出し、高揚した気分で去るにはどうしたらいいかということですね」 あるとき、私は彼に尋ねた。F1界で進化が見られずに一番驚いていることは何ですか、と? 「この業界にはまだまだ女性が必要です。若い女性や少女たちに、F1は女性のための場所でもあることを知ってもらえるように、もっと多くの女性が前面に出て、人の目につくように戦っていかなければなりません」 2024年になって、彼は「これまでで一番ハードなトレーニングをしていて、かつてないほど身体的な準備が整っていると感じています。だから、この先、何も約束されていることはないとわかっている今が本当に楽しみです」と言っていた。「でも同時に、コンセプチュアルでもある。この先、次のフェーズで、自分が何をやりたいかはすべて把握しています」。ハミルトンは続ける。「これまでやりたいことは全部自分で実現してきました。それも毎年。トミーとの仕事、世界選手権での優勝、記録の更新。それ以外に将来の計画も立てています」 フェラーリへの移籍も、心のなかで決めていたことなのですか? と私は尋ねた。「そうですね。おそらく、人生の早い段階から無意識のうちに、そうなるだろうと考えていたのだと思います。やろうと思えばいつでもできるところにありました。ですが今年は、メルセデスをできる限り高いところまで引き上げるつもりです」 「メルセデスを去るといっても、自分の姿勢は変わりません。チームに対するコミットメントは例年とまったく同じです。他のチームは全部打ちのめすつもりです。勝つのは私たちメルセデスです。アプローチは最後の最後まで変わりません。それに、その後のことに気を取られすぎてはいけないと思っています。来年にならないと、本腰は入れられませんから」 メルセデスでの最後のシーズンとなる今季は、過去2シーズンで勝利をあげられていないハミルトンにとっては前例のない期間にあたる。メルセデスが造るマシンは2シーズン連続で、苦戦を強いられているのだ。その間、レッドブルのマックス・フェルスタッペンが圧倒的な強さを見せている。ワールドチャンピオンを狙えると思っていなければ、この仕事を続けていないだろうとハミルトンは言うが、私たちは2021年のシーズンの終わりが彼にとってのキャリアのターニングポイントだったのではないか、ということについても話した。 この年のタイトルは、シーズン最終戦の最終ラップ、文字通りシーズン最後の数分間で決定した。レースディレクターによる信じがたい判定が下されると、ハミルトンとフェルスタッペンはいったん切り離された。ファイナルラップでタイトルを決めるためだ。しかし、フェルスタッペンのマシンが明らかに有利な状態(新品のタイヤを装備したばかり)だったため、ハミルトンの運命はスタートの前にすでに決まっていた。 「あの判定に不満はありますか?」と私は尋ねた。 「そりゃそうですよ。何があったかはご存じですよね。でも、あの瞬間に本当に素晴らしかったのは、父が一緒にいてくれたことだと思います。浮き沈みの激しいジェットコースターのような人生を一緒に歩んできましたから。私が最も深く傷ついたあの日、父はそばにいてくれた。小さい頃から、常に頭を上げ堂々としているようにと教えてくれたのは父でした」 「レース終了後、マックスにお祝いの言葉を伝えに行きましたが、負けたことがどれほどの影響力を持つかはまだわかっていませんでした。でも同時にすごく意識もしていて、小さな自分が見ているような感覚もありました。これは自分の人生において決定的瞬間なのだと。本当にそうだったと思います。肌で感じていましたから。でも、それがどう受け止められるかはわかりませんでした。イメージしていなかったのです。でも、確かに意識はしていた。このままあと50メートル歩いたところで倒れて死ぬか、立ち上がるかだと」 私は、あのレースにまだこだわっているのかと尋ねた。 「当時の映像を見ると、今でもそのときの感情が蘇ってきます」と彼は言う。「もう落ち着いていますけどね」。その後、勝利がないことについては? 「私のファンは本当に忠実です。最初は理解できませんでした。『自分は勝てていないじゃないか!』って。でも、常に1位でゴールする人に共感するのも簡単じゃないのだと気づきました」 彼は映画からいい教訓を得た。それは、人はみなカムバックストーリーが大好きだということだ。 【ルイス・ハミルトン】 1985年生まれ、イギリス出身。メルセデス所属。史上最多、7度のF1ワールドチャンピオンに輝く。今年、2025年にフェラーリに移籍することを発表。ドライバーであると同時に、ファッションや映画への関わりでも知られている。 By Daniel Riley Photography by Campbell Addy Translation by Miwako Ozawa