初高座はまったくウケなかった 猫の出演だけ爆笑も、お茶子さん「アンタ出世するわ」 話の肖像画 落語家・桂文枝<10>
《昭和41年12月1日、桂小文枝師匠(※後に五代目文枝)に入門して、「三枝(さんし)」の名前をもらう。最初は、あまり気に入らなかったという》 小文枝師匠のところに弟子はいない、と思い込んでいたのですが、実は1人いましてねぇ。結局すぐに辞めてしまうのですが、師匠としては、自分も含めて「3番目」という意味があったらしいけど、僕は「文三(ぶんざ)」がええなぁ、と考えていたからどうにも気に入りません。 後で、『鳩(はと)に三枝の礼有(れいあ)り』という言葉(※子鳩は親鳩に敬意を表して3つ下の枝にとまるという意)があることも知って、悪くないな、と。僕が(三枝の名前を)大きくしたらいい、と思い直しました。 これはもっと後の話になりますが、僕がラジオ番組に出るようになったとき「さんし」と聞いてリスナーは「三枝」と、はがきになかなか書いてくれなかった。「三四」とか、ひどいのは「惨死」とか(苦笑)。一方で司会をやるときプログラムやビラに「三枝」と書かれると、女性とよく間違われました。「みえ」さんって。そこで僕が登場したら何や男かって。 《師匠の家での内弟子修業が始まった。家は西成区内の2階建ての長屋。師匠の身の回りから3人の幼い子供の世話、そして落語の稽古、さまざまなしきたり…。やること、覚えることは山のようにあった》 師匠はあまり、弟子に稽古をつけない人で、ほったらかしに近い(苦笑)。 稽古をつけてもらって、最初に注意されたのは「お前のは素人(しろうと)口調や。そんなんではアカン」ということでした。 というのも、それまでの僕は、学生同士でやりとりするような普通の口調でしゃべっていましたから、それが師匠には昔ながらのやり方ではない、と思われたのでしょうねぇ。 最初に教わったのは『煮売屋(にうりや)』でしたなぁ。師匠がいわれる素人ではない「プロの口調」というものが僕にはよく分からず、結局、ダメ出しされてばかり。そのうちに師匠もイライラしてきて、稽古が打ち切られてしまう。その繰り返しでしたねぇ。 《プロの落語家としての初高座は、入門から半年たった42年5月31日。大阪・道頓堀(どうとんぼり)の角座(かどざ)だった》