101年目の通天閣 「新・世界遺産」宣言!?
富士山の世界遺産登録で日本中が余韻冷めやらぬ7月、大阪で「新・世界遺産」宣言がなされた。今年101年目を迎えた「通天閣」だ。通天閣の世界遺産登録を目指した動きか、と驚く人もいるかもしれないが、実はこれ、通天閣を中心に広がる一帯の地名「新世界」と「世界遺産」をかけた言葉なのだ。 通天閣観光の副社長、高井隆光さんは笑う。「誰も言ってくれないので自分たちで宣言しました」。通天閣の紙模型付きのチラシを4種類作成し、館内にも掲げられている。チラシには「新世界の遺産・通天閣」とある。
通天閣は言わずと知れた大阪の象徴的なタワーだが、実は現在のものは2代目。初代は1912年7月に仏・パリのエッフェル塔と凱旋門をモデルにして建てられた。75メートルの高さは当時東洋一を誇り、3万個の電飾できらびやかな世界を演出していた。この通天閣を中心に映画館や演芸場、飲食店などが並んだ「新世界」は大阪を代表する歓楽街に成長。昭和に入ってカフェが登場すると「新世界」は最盛期を迎えた。しかし初代通天閣は、塔の下にあった映画館が1943年に失火で炎上、その後、解体されてしまった。 「やっぱり新世界には通天閣がないとあかん」。地元の人々の思いと尽力で、1956年、現在の2代目通天閣が誕生した。高さは103メートル。何度かの大改修を経て、今に至る。通天閣の入場者数は昨年度、53年ぶりに130万人を超え、過去3番目を記録した。通天閣には多くの人が集まり、周辺の歓楽街「新世界」には串カツ屋などの飲み屋がにぎわいを見せている。そして、タワーのてっぺんにある丸いネオンの色が翌日の天気を予報するなど、観光名所でもありながら市民の生活に溶け込み、親しまれている。
しかし、通天閣にも「さびれていた(高井副社長)」時代があった。再建翌年の1957年度には、過去最高の155万人の入場者を記録したものの、1975年度には20万人割れするほどまで低迷。経営は危機的な状況に陥った。アマチュア将棋大会の開催など経営努力が続けられ、1996年にはNHKの連続テレビ小説「ふたりっ子」の舞台になったことなどから、来場者は徐々に持ち直していった。そんな折、2005年に高井さんが副社長に就任。通天閣の守り神「ビリケンさん」の東京出張を実行した。「何となくビリケンさんを知っていたという人にも、身近に感じてもらえるようになったのでは」。それまでは門外不出のビリケンさんだったが、これで全国区の知名度になった。 101年目を迎えた通天閣。高井副社長は「通天閣は『パワースポット』みたいなもの」と語る。人を集めるパワーを持っているからだと言う。そして「高さ的にはもっと高いスカイツリーがあるし、歴史的には仏のエッフェル塔があるし、上には上がある。でも通天閣は記憶に残るもの。これからも100年、300年、500年と、未来永劫続くように、元気、活気、面白さを発信していきたい」と意気込む。 通天閣は2006年、国の登録有形文化財になった。大阪のシンボルとして広く親しまれていることなどが評価された。「いつか大阪初の世界遺産になれることを信じて――」。高井副社長の語り口調は熱い。