大学授業料は値上げすべきか?:伊藤隆敏の格物致知
大学授業料の値上げの議論が盛んになってきた。今年3月に、慶應義塾の伊藤公平塾長が、国立大学は授業料を150万円程度に引き上げるべきだ、と発言し、ほぼ同時期に、東京大学の藤井輝夫総長が、授業料を現在の53万5800円から、国が定める引き上げ上限(20%増)の64万2960円まで、値上げの検討に入ったことを公表した。このような議論の盛り上がりを受けて、文部科学省は有識者会議を設置、国立大学の授業料の在り方について議論するという。 伊藤塾長と藤井総長による授業料値上げ提案の根拠は、高等教育の質を保つためには、授業料の引き上げが必要だ、ということだ。国立大学の授業料は過去20年間据え置かれてきた。収入の大きな割合を占める運営費交付金は、2004年度から10年間にわたり毎年1%以上の削減が行われ、その後は据え置かれたままだ。慶應大学など私立大学は少しずつ授業料を引き上げてきたがコスト増には追い付いていないという。大学の経費が上昇するので、授業料引き上げが必要だというのは、教育サービスを供給する大学側の生産コストからの議論である。 では、教育サービスを需要する学生および社会の事情はどうだろう。このコラムでは、つぎの2点を議論したい。 第一に、大学教育の便益が個人に帰属するか、社会に帰属するかを考えてみよう。個人に帰属する、と考えれば、政府が補助金を出す必要はない。学生の人的資本を大きく伸ばす教育をする大学は高い授業料を課し、学生は授業料を払って大学で教育を受ける。学生の人的資本は高まり、高い給与を稼ぐことのできる職業につくことができる。授業料は人的投資の「個人的リターン」を得るための対価と考えることができる。 一方、多様で高い専門性をもった人材を多く社会に輩出することで、産業基盤をしっかりさせ、企業を育成、誘致することができる。社会全体が、所得、雇用、税収という意味で収益を高めることができる。これが教育の「社会的なリターン」である。この場合、政府による予算措置が正当化される。