ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (15) 外山脩
不吉な門出
話を、東京着以後の水野の動きに移す。 水野は皇国殖民の社員と、移民一、〇〇〇人の送出準備に奔走した。が、その進み具合は捗々しくなかった。まず当局の送出許可の取得が遅れた。相手は動きの鈍いお役所である。やっと取得して、下請け業者に移民を募集させたが、何分、時間がなかった。水野は焦って無理に掻き集めさせ、傭船笠戸丸に乗せた。カフェー園移民七七二人、職工移民九人、計七八一人である。予定の一、〇〇〇人は確保できなかった。 不吉な門出となった。なお、カフェー園移民は家族単位で、職工移民は独身者であった。 県別に分けると沖縄が最も多く三二四人、次いで鹿児島一七二人、熊本七八人、福島七七人……と続いていた。 彼らが水野に率いられて、神戸を出港したのは四月で、西回り航路でブラジルに向かった。 航海中、下級船員たちの水野に対する空気が険悪となった。悪態をつき痰を飛ばす……といったこともあった。彼らに心づけを出さなかったのが原因だった。 水野は粗放なくせにケチであった。 この水野の下で、移民の監督役を務めていたのが、上塚周平である。東京帝国大学出の法学士であった。皇国殖民会社の現地責任者として、サンパウロに事務所を開き、常駐することになっていた。 笠戸丸がサントスに入港したのは、六月十八日だった。 乗船客の中には、移民のほか一般旅行者が十数人いた。その中に、香山六郎がいた。六十年後、南樹に倣って受勲を辞退する人物である。航海中は上塚の書類整理を手伝っていた。そのままサンパウロの皇国殖民の事務所で雑用係を務めることになる。 この香山が、サントスで南樹に会ったときの印象を後年、回想録にこう記している。 「黒人と間違えられそうに色の赤黒い、目のギョロッとして、肉の引き締まった、ぶっきらぼうな大男だった」 文学青年の面影は消えていた。太陽に焼かれながらの、重労働の結果である。三十歳になっていた。 南樹は先輩風を吹かしていたという。その通りであったかもしれない。南樹からすれば香山など若造で、この国に関しては何も知らない新参者であった。自分より僅かに年長の上塚にしても、同じである。 ところで(既述の様に)この移民の到着に関して、農務長官は最初、四月の入港を要求していた。それを水野が五月に延ばして貰った。その五月にも間に合わなかったのである。 この遅れが大事を引き起こす。これは次章以降で取り上げる。 移民はサントスに上陸後、サンパウロの移民収容所に汽車で運ばれた。そこから、カフェー園移民はリべイロン・プレット周辺、その他のファゼンダに配耕された。配耕とは、ファゼンダに送り込むという意味である。 職工移民はサンパウロ市内で職を求めた。 ファゼンダでは、世話役を兼ねた通訳がついた。その通訳は、東京外国語学校卒あるいは中退の、二十代前半の若者五人である。彼らは日本で水野の誘いに乗って、この仕事に応募、シベリア鉄道で大陸を横断、大西洋を船で南下して、笠戸丸より一足先に着いていた。加藤順之介、嶺昌、平野運平、大野基尚、仁平高で、後に「通訳五人男」と通称されるようになる。 なお、この年から翌年にかけて、ほかにも異色の日本人たちが、入国している。 山形県人の遠藤直一。当人の話では陸軍の特務曹長で、笠戸丸より半年前、ブラジル開拓を志して、英国船でやってきたという。チリからマゼラン海峡を徒歩で渡ってアルゼンチンに出、ブラジルに……と自慢していたそうだが、どこまで本当の話か分からない。 山県勇三郎。 笠戸丸の少し前、リオ入りした。実業家である。北海道でのし上がり、東京に進出していた。が、渡航の動機は、自身の事業の破産だった。債鬼の追及から逃れるため、地球の反対側まで高飛びしたのだ。日本の破産史史上、稀有の高飛び距離であった。 しかし、平然と大植民地の建設を論じ、気炎を上げていた。 三浦鑿(さく)。 笠戸丸の半年ほど後、リオ入りした。 後にサンパウロで日伯新聞という邦字紙を手に入れ、伝説的な反骨精神を発揮、その名を後世に残す。 蜂谷吾輔。神戸商業出の元三菱銀行員。一九〇九年、前記の大平善太郎の父親と共にリオへ。翌年、蜂谷商会を開店。 星名謙一郎。 ジャカレイ(鰐)と呼ばれた。その風貌から連想された異名である。 愛媛県人。ハワイに渡って邦字新聞を持ったことがある。一九〇九年、サンパウロに現れた。後に邦字紙『南米』を発刊、これで宣伝、植民地を二カ所つくった。 ハワイでは、人を殺したというが、ブラジルでは自分が殺された。 一九一〇年、青柳郁太郎という四十代の紳士がリオ入りしている。青柳は日本の実業界から資金を集め、植民地建設に乗り出す。 前史時代を含めて、ここら辺りまでに登場した人々を━━むろん無名の移民を含め━━この国に於ける日本人のパイオニアと、南樹は捉えていたようである。(つづく)