練習から逃亡→籠城も「開けろぉ!」 引きずられてグラウンドへ…味わった“地獄”
伊勢氏に合わせて小森コーチも2軍へ…地獄のマンツーマン指導が続けられた
しかし、まだまだ力の差は歴然だった。この年の成績は27試合、32打数3安打の打率.094、本塁打、打点はいずれも0。8月9日の阪急戦(西京極)に代打で出て三振したのを最後に2軍落ちとなった。そして、小森コーチからマンツーマン指導を受けることになった。「小森さんは1軍コーチだったんですけど、小玉明利(選手兼任)監督と折り合いが悪くて、伊勢を育てるという名目で一緒に2軍に行くことになったと思うんですけどね」。この練習が地獄だった。 「2軍だから朝からやって夕方には終わるじゃないですか。ところが、2軍と同じ練習をやらせてもらえないんですよ。別口なんですよ。小森さんが考えて、ランニングの量からバッティング、守備と全部違うメニュー。みんなが練習を終えて寮に帰ってビールを飲んだりしている時に『さあ、伊勢、今から守備やるぞ!』と言われるような毎日。もうそれが嫌で嫌でねぇ」。あまりにもきつくて、とうとうある日、反旗を翻したという。 「『もうやめた!』と言って、ファーストミットをポーンと放って、すたこら(藤井寺)球場のライト(スタンド裏)の寮に帰ったんです。小森さんが追いかけてきたから部屋の鍵を閉めて開けなかったんです。『開けろぉ!』『嫌じゃ、もう辞める!』ってね。30分くらい押し問答して、あまりにしつこいから鍵を開けたらつかまえられて……。小森さんは合気道かなんかやっていて、ものすごい握力が強いんですよ。グラウンドまで引きずって連れていかれて『やれ!』って」。 何ともつらい日々だったが、振り返れば、それが伊勢氏の野手人生の礎になった。翌1968年シーズンはオープン戦から絶好調で開幕スタメンの座も勝ち取った。その年から小森氏は広島コーチになっていたが、伊勢氏は前年の練習効果と思っている。小森氏とはのちにヤクルトでも師弟関係となるなど、その結びつきはさらに深まっていく。「小森さんにはいろいろお世話になりましたね」と伊勢氏はとても感謝している。
山口真司 / Shinji Yamaguchi