クラブ大崩壊…。Jリーグ、大失敗した日本人レジェンド監督6人。選手時代は圧巻も…。指導者としてはガッカリ
●信藤健仁(元日本代表DF) 生年月日:1960年9月15日 主な監督歴:横浜FC(2001-2002) 元日本代表DF信藤健仁は、マツダSC(サンフレッチェ広島の前身)で天皇杯決勝進出、ベルマーレ平塚(湘南ベルマーレの前身)では天皇杯優勝を果たすなど、行く先々のチームで活躍した。しかし、監督としてはJ2で88試合23勝12敗53敗と、成功したとは言い難いだろう。 1995年にスパイクを脱いだ信藤は、2001年に横浜FCの監督に就任した。当時J2昇格初年度だった横浜FCは、成績低迷によりシーズン途中となる9月に永井良和監督が退任。後任として指揮を任された信藤にはチームの立て直しが求められた。最終的に全12チーム中9位でシーズンを終え、監督1年目としてはまずまずの成績を残した。 問題となったのは、就任2年目となる2002シーズンに信藤監督が採用した戦術である。「超攻撃的サッカー」を掲げ、[2-4-4]のシステムで戦うことを決断した。当然、このフォーメーションでは守備陣に大きな負担がかかるため、それを上回る得点を奪わなければ勝ち点を積み重ねることは出来ない。 しかし、対策してくる相手に有効策が見出せなかったこと、そして攻撃に人数をかけたことで攻守のバランスが崩壊したことで、この試みは失敗に。J2最下位(リーグワーストの81失点)という最悪の結末を迎えてしまった。翌2003シーズンはピエール・リトバルスキー氏と監督を交代している。 守備の立て直しを期待されたリトバルスキー氏だが、一度完全に崩壊した守備陣を修復することはできず。2003シーズンは昨季を上回る88失点を喫している。一見すると魅力的に聞こえる信藤の超攻撃的サッカーだが、その代償に失ったものはあまりにも大きかった。
●都並敏史(元日本代表DF) 生年月日:1961年8月14日 主な監督歴:ベガルタ仙台(2005)、セレッソ大阪(2007)、横浜FC(2008) 都並敏史は、読売サッカークラブ、その後継となるヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)で活躍し、日本代表でも左サイドバックの絶対的な主力となっていた。しかし、現役時代に受けていた評価とは反対に、監督としての評価は高くない。 2004年にS級コーチライセンスを取得した都並は、すぐにベガルタ仙台の監督に就任。2005シーズン前半戦は低調なパフォーマンスとなったが、後半戦から意地を見せてチームを最終順位4位(19勝11分14敗)まで押し上げた。しかし、入れ替え戦への出場を逃したことで1年での解任となっている。 その後、ヴェルディでのコーチ経験を経て、2007年にセレッソ大阪の監督に、2008年には横浜FCの監督に就任したが、どちらも仙台時代と同じく1年で解任されている。 監督としてはことごとく失敗してきた都並だが、最近になってその評価は変わりつつある。2018年にブリオベッカ浦安(関東1部)の監督に就任すると、2022年にチームをJFL昇格に導いた。昨季はJFL2位の好成績を挙げ、クラブの悲願であるJリーグ参入は確実に近づいている。今季はスタートダッシュに失敗しているが、巻き返すことができるだろうか。