全身に99ヵ所の傷を負っても戦い続けた猛将・藤堂高虎、「7人の主君を渡り歩いた戦国の風見鶏」のイメージとはほど遠い実像【イメチェン!シン・戦国武将像】
戦国史をお好きな方であれば「藤堂高虎(とうどうたかとら)」と聞くと、主君を次々に変えた武将というイメージをもっている人も多いだろう。しかし、それらの主君たちに対して、高虎は全力で尽くしていたという話が残っている。 現代を生きる人々は次々に職場(会社)を変えるのが当たり前── 転職は当たり前の時代だが、戦国時代にもそうした武将は数多くいた。そのうちの代表的な存在が藤堂高虎であろう。高虎は、何度も主君を変えたことで日和見(ひよりみ)武将のように言われてきたが、近年は別の見方をされるようになってきた、いわばイメージチェンジが図られた典型的な武将でもある。高虎は、14歳で浅井長政(あざいながまさ)に仕え姉川合戦にも参戦したのが最初で、以後は阿閉貞征(あつじさだゆき)・磯野員昌(いそのかずまさ)・織田信澄(おだのぶずみ)・豊臣秀長(とよとみひでなが)、さらに豊臣秀吉を経て最後は徳川家康に仕えた。このように主君を7人も変えて生き抜いた高虎は、陰では「戦国の風見鶏」などという不名誉な言われ方をされた。 だが、高虎が見限った主君たちは、実は次々に滅びたり死亡したりしていることを見ると、高虎が若い頃からしっかりした「人物鑑定眼」を備えていたことが分かる。言い方を変えればこうした事実は、高虎には主君として仕える相手を見定める力があったことの証拠でもあろう。 最後に主君と定めた家康は、そのような高虎の人物像を見極め、高虎を信頼して外様ながら譜代同様の扱いをし、さらには譜代のナンバー1は井伊(直政)家、外様のナンバー1は藤堂(高虎)家の定めたのだった。主君を何度も変えたことを家康も高虎も気にはしていないはずである。というのも「二君にまみえず」という儒教的・封建的な絶対忠義的な武士のあり方は、江戸時代以降のことであるからだ。 高虎は、主君を変えるたびにジャンプアップを果たしていったが、周囲の目には「阿諛追従(あゆついしょう/人の顔色をうかがって媚びへつらうこと)」の男と映ったに違いなかった。 しかし高虎は、仕えた主君には徹底的に尽くした。戦国時代である。徹底的に尽くすとは、口先で上手なことを言うのではなく、身を粉にして戦場を暴れ回ることを言う。そうした戦場働きを嫌がらずに高虎は、弓矢、槍ふすま、鉄砲の最中を走り回り、戦い抜いた。 こんな話が遺されている。藤堂家が32万3千石という石高になった時に高虎は、素っ裸になって数人の家臣に手足の指から耳の裏まで、身体の疵(きず)がいくつあるかくわしく数えさせた。すると家臣が見たのは、肌に隙間がないほどの疵で埋まってる高虎の裸体であった。鉄砲の弾跡・槍の突き傷、刀疵、すべてが戦場における疵であり、さらに家臣たちを驚かせたのは、右手の薬指と小指が千切れて失われていたことであり、どの指にも爪がなかったし、左手の中指はほぼ1寸(約3・3センチ)ほど短くなっていたことだった。さらに左足の指にも爪は1本も残っていなかったのだった。 家臣たちは、こうして高虎が家のために、家臣団のために50年も戦い続けたことに感動し、その事実に泣かされたという。高虎は、75歳の(この時代としては)長命を生きたが、高虎の身体の疵の事実を知った天海僧正は畏敬の念を持ち、「寒松院殿賢高山権大僧都」という法名を贈った。寒さに負けず常に青さを誇る松の木に、高虎をなぞらえた法号である。 「日和見」から「猛将」へとイメチェンを図った藤堂高虎は、NHK大河ドラマの主人公にもなりうる戦国武将といえよう。
江宮 隆之