19センバツ星稜 第4部・「伝統」をまとう/3 名将の参謀、躍進支え /石川
<第91回選抜高校野球> ◇「育てる」野球 花開く 甲子園ではユニホームを着用しない指導者の視点から、星稜の歴史を顧みたい。1989~2004年度に部長を務めた本田実さん(66)=現金沢星稜大非常勤講師=は突然の野球部との巡り合いから、90年代の「第2期黄金時代」を見つめることになった。 荒山善宣さん(現コーチ)が投打に奮闘した83年センバツ。女子ハンドボール部監督だった本田さんは遠征先の岐阜で試合のラジオ中継を聞いていた。「4月からどうやってハンドボール部員を入れようか」。そんな話も生徒たちとしていたという。野球部の副部長就任を言い渡されたのは、その直後。「事前に打診もなくて。正直『何で?』という感じでしたよね」。山下智茂監督(現名誉監督)と校内外で親しかったことも決め手になったというが、戸惑いはぬぐえなかった。 自身は星稜高時代、陸上部で長距離と競歩が専門だった。「子供の頃に遊びでやっていた」程度の野球。見よう見まねでトンボをかけたり、野球場のフェンスを補修したり……。「一番やったのは球の繕い。糸で縫うのに適した針を探して買いに行きました」。既に知名度が全国区になっていた山下さんに食らいつくことだけを考えていた。 副部長になって半年ほどたったころだったと記憶している。「ちょっと打ってみいや」。山下さんにノックをするよう言われ、バットを手に持った。「10球打ったところで手の皮がむけた。それに、球が思うように当たらない」 以降は室内練習場でノックの練習をしてから、グラウンドに向かう習慣が付いた。本田さんいわく「球が芯に当たるまで3年、思ったところに打てるまで5年」。名人芸とも言われた山下さんのノックを観察し続けたこともあり、「打ち方は山下監督とそっくりになった」と本田さん。ただ、「私の方が足の運びが1歩多い。山下監督は動きに無駄がない。それだけは最後まで直らなかったですね」と笑う。 89年には部長に就任したが、しばらくは野村治夫部長との2人体制。試合でベンチ入りするようになったのは、95年春からだった。2年生エースの山本省吾投手(現ソフトバンクスカウト)を擁し、夏の甲子園で準優勝を果たすチームである。「勝つ」だけでなく「育てる」に主眼を置くようになった山下野球が花を咲かせた頃。「いい時期にいたなと思います」と、本田さんは振り返る。 約15年にわたって山下さんの参謀を務め感じたことは、ベンチに入るまで、つまり試合前のムード作りの重要性だった。事務的なことは全て引き受け、山下さんには野球に没頭してもらう環境を作る。 「あそこのあれを取ってきてほしい」。具体的な指示がなくても、山下さんの要望が分かったという。山下さんが「夫婦と同じだよね」と語るゆえんだ。さらに気を配ったのは選手との関係。遠征先であれば消灯時間を過ぎてもマネジャーとチームの課題を整理した。 現在は山下さんの長男智将さん(37)がかつての自分の役割を務める。智将さんの3年時の担任教諭でもあった本田さんは「彼には日本一の部長になってほしい」と夢を託す。「彼と同じ年代の頃は、一番壁にぶち当たった時期だった」。智将さんにとっても、初の甲子園制覇が期待されるチームだ。重圧を思いやりつつ、「本当の学びはこれからです」。口調は、それでも柔らかかった。【岩壁峻】