蒙古襲来750年:モンゴル出身の横綱・照ノ富士らが供養に訪れた寺、元の使者斬首の悲劇
「科(とが)なき蒙古の使い」と日蓮
当時、龍ノ口で処刑された罪人の亡きがらは、川に流されることもあれば、身分の高い者の場合は近くの「誰姿森(たがすのもり)」に埋葬されていたと言われる。この森に向かって、地元の民は手を合わせて弔うようになり、回向山利生寺(えこうざんりしょうじ)が創建された。杜世忠ら5人も、この寺に埋葬され、後の時代に常立寺(日蓮宗)と改められた。 鎌倉幕府による使者斬首に真っ向から異を唱えた数少ない人物が日蓮である。幕府に事あるごとに意見し、処刑されかかったこともある宗祖だ。「科(とが)なき蒙古の使の首をはねられ候ける事こそ不憫(ふびん)に候へ」と文書に記した。 境内の句碑には、リーダー格の杜世忠が死の間際に詠んだ辞世の句が刻まれている。 「家の門を出る際、妻や子は寒さをしのぐ服を贈ってくれた。出かけて、何日で帰ってくるのか。戻って来た際には、使節の目的を果たして、恩賞の金の印綬(いんじゅ)を帯びていれば、蘇秦(そしん)の妻(※2)でさえ、機織りの手を休めて出迎えたであろう」。事態はその真逆であり、無念がうかがえる。 斬首された使節団の中には、南宋人もいた。副使の何文著である。南宋が元の支配下に入ったが故に、祖国と関係ない戦に巻き込まれる運命にあった。「自分の首がはねられようとしているが、秋風のようなものだ」と詠み、無常観をにじませた。 5人の墓は、5つの石を積んだ五輪塔となっている。青い布が巻き付けられているが、モンゴルでは青は尊い色と言われる。かつてモンゴル出身の元横綱・白鵬が訪れた際に、「英雄の証」として、青い布を掛けるように寺に頼んだのだという。
「敵国人」の供養が許されない時代
「科なき蒙古の使」を悼むことは、いつでも当たり前のようにできる訳ではなく、社会の空気がそれを許さない時代もあった。 日蓮の遺志を継いで、23代住職の日精(にっしょう)が境内に大きな供養塔を建てた1925(大正14)年が、まさにそういう時代だった。その2年前の関東大震災時には、流言飛語とともに、朝鮮人、中国人が官憲や自警団の手で殺害される事件が同時多発的に発生。第2次大戦に向かう暗い時代の前夜にあった。 昨年、27代目となった服部功志住職は、こう話す。「国家権力による圧力があったとは聞かないが、軍国主義が芽生える中で、『かつての敵国人を弔うとは何事か』と言われ、大っぴらに弔うのは難しい時代だったかもしれない。先人には苦労があったのではないか」 「5人の使者はただのメッセンジャー。国と国の権力者のはざまにあって、まさしく『科なき使』だった」と話す服部住職。過去の歴史をよく知らないモンゴルの人々も近年、寺の営みに注目してくれていると喜ぶ。「この寺を知ることによって、国を超えて人の死を悼む思いで共感できる場になっているのは誇らしいし、報われる思いだ」 (第4回に続く)