意外と知らない、なぜ日本の「賃金上昇率」はもっと加速しないのか
安くて質の高いサービスと消費者優位の市場環境
このようないびつな労働市場のあり方が、日本人の働き方に数々の弊害を生み出している。この問題を業界に関わっている人たちだけの問題だと考える人もいるかもしれないが、それは実態と異なる。こうした労働市場の諸問題は、むしろ日本に住むすべての人に関係している問題である。なぜなら、安い労働力の受益者は、ほかならぬ私たち一人ひとりの消費者だからである。 現在の日本の経済構造をみると、消費者と働き手との関係性に一定のゆがみが生じている。それを示唆する調査を一つ紹介したい。日本生産性本部が行った「サービス品質の日米比較」である。 この調査は日本のサービス産業の労働生産性を探るために行われた調査であり、米国滞在経験がある日本人を対象にした日本人調査と、日本滞在経験がある米国人を対象に行った米国人調査から構成される。調査の実施期間は2017年の2月末から4月上旬までの期間で、インターネットモニター調査によって実施されている。 同調査は日米両国に滞在経験がある人に対して、生活に身近な29種類のサービス(価格に関する調査が行われていない官公庁のサービスを除けば28種類)の品質と価格について、日本と米国のどちらが優れていたか、またどちらが安かったかを回答させている。本調査では、日本と米国でどのようなサービスを好むのかという嗜好性の差もあることから、米国滞在の日本人が答えた結果と日本滞在の米国人が答えた結果を合成したうえで、品質と価格の指数を作成している。 調査結果は驚くべきものとなっている。28種類のすべてのサービスで日本のサービスの質が高いという結果となったのである(図表3-3)。一方で、価格についてみると病院や大学教育のサービスについては日本のほうが明らかに安く、それ以外のサービスについては日米で概ね拮抗した結果となっている。つまり、高水準の品質のサービスが相対的に低い価格で提供されているのが日本のサービス関連市場の特徴になっているのである。 生産性の問題を語るとき、ものさしになるのは結局そのサービスがどの程度の貨幣価値を生むかということになる。つまり、どんなに質が高いサービスが存在していても、そこに適切な値付けがされなければ、そのサービスは生産性が低いサービスだとみなされてしまう。 日本の低い労働生産性は主にサービス業の生産性の低さからくるものである。サービスは他国と貿易することができないことから、同じサービスであっても異なる価格で取引されることは避けられず、そこには一定の内外価格差が生じることになる。日本ならではの良質なサービスが実際の価格に反映されないことで、物価指数やGDPの計測からサービスの質に関する情報が漏れているという事情も、日本の生産性が上がらない一つの要因として隠れているとみられる。日本の生産性が低いというと日本人の努力が足りないのだと思われがちだが、生産性の正体が何かと考えていけばサービスに対する「評価」の問題に直面することになるのである。 もちろん、サービスの価格はその時々の為替レートの影響を受けることから、単純な比較は難しい。この点、近年は日本銀行による大規模金融緩和によって為替が円安方向に推移していることから、日本のサービス価格が米国に比べて安くなる傾向があるという事情には留意しておかなければならない。ちなみに、この調査が行われた2017年3月の対ドルの為替レートは、概ね110円台前半での推移となっていた。 このように調査結果を読みとく際にはいくつか注意する事項はあるものの、調査の結論として、市場原理主義国家ともいわれる米国よりも、日本のほうがより低価格で高品質なサービスが広く普及しているという事実は注目に値する。 同調査においては、日米のサービス価格と品質の分析に合わせて、日本のサービスのどのような点が優れているのかも洗い出している。調査の回答者は、タクシーや宅配便など運輸関連のサービスであれば「正確で信頼できるサービスを提供してくれる」こと、飲食・小売関連サービスであれば「接客が丁寧である」ことや「迅速にサービスを提供してくれる」ことなどについて、米国よりも日本のほうが優れていると考えていることがわかっている。 このように見ていくと、こうした生活に身近な仕事について、働き手はその仕事の価値に見合った適正な賃金を受けとれるべきではないか。そして、このような仕事に対して対価をしっかりと支払うべきだという提案は、決してバラ色の選択肢ではない。適正な賃金を支払うということは、その分のサービス価格の上昇を社会が甘受すべきであるということであり、これはすなわち消費者が相応の負担を受け入れるべきだということにほかならないからだ。 低価格で高品質なサービスがいつでもどこでも受けられる経済環境が定着することは、消費者にとっては非常に心地がいいものだ。日本の消費者がこうした利益を放棄し、小さな仕事で働き続ける人に適正な対価を支払う覚悟を持てるか。働き手が不足し、その希少価値が高まっている現代において、こうした痛みを日本に住む全ての人が受け入れ、消費者優位の市場環境を転換させていくことができるかが、今問われているのである。 つづく「多くの人が意外と知らない、ここへきて日本経済に起きていた「大変化」の正体」では、失われた30年を経て日本経済はどう激変したのか、人手不足が何をもたらしているのか、深く掘り下げる。
坂本 貴志(リクルートワークス研究所研究員・アナリスト)