「悔しさをエネルギーに変えて成長」【後編】 箱根駅伝〝三代目・山の神〟が振り返る快進撃の背景/神野大地(青学大ОB)
大正9年に創設され、昭和、平成、令和と4つの時代を駆け抜け、いよいよ第100回の歴史的な節目を迎える箱根駅伝。学生たちが繰り広げる2日間の継走は、多くの人々に勇気や感動を与え、「正月の国民的行事」と呼ばれるほど大きな注目を集めている。選手たちが並々ならぬ情熱を傾ける箱根駅伝の魅力はどんなところにあるのか。青学大時代に大活躍した〝三代目・山の神〟神野大地に、快進撃の背景を振り返ってもらった。(後編) 第100回(2024年)箱根駅伝 出場チーム選手名鑑をチェック! 主将を務めた4年目は「故障の連続」に苦しむ ――4年目は主将としてチームを牽引していましたが、最終学年はどんな1年でしたか? 神野 いいことがあればそれだけ身体へのダメージも大きかったりするので、〝悪いこと〟というわけではないですが、人生には波があるな、というのを感じられた1年でした。主将として背中で引っ張っていきたいという思いとは裏腹に、身体へ強い負荷がかかっていたのでケガをしてしまい、早く練習に復帰してみんなを引っ張らなければいけないという思いはあっても、故障はなかなか治らない。気持ちを保つのに大変な1年でしたね。 ――4年生の箱根駅伝において体調やコンディションは、前年と比較して何割ぐらいの状態だったのでしょうか。 神野 僕は1年間のうち合計で半年以上、2ヵ月ぐらいの故障を3回やっていて、走ってない時期の方が長い1年間でした。全日本大学駅伝はアンカーを走ったのですが、区間8位とふるわず、人生で最悪のレースというか、人生で一番悔しかったレースでした。今もMGC(パリ五輪マラソン日本代表選考会)など悔しさを味わったレースはありますけど、学生の時に最もしんどかった思いをしたのはあの時の全日本でしたね。 ――あの全日本では、神野選手が箱根の5区で見せたように逆転するのではないかと注目されていました。 神野 名前も知ってもらって、かなり注目されて、青学が優勝するだろうと当然思われていて、僕がタスキをもらった位置は先頭と25秒差。テレビの方も、チームメイトも「逆転するだろう」と思っていたでしょうが、前半からまったくペースが上がらず、なんとか粘って走り切ったのですが、逆に30秒ぐらい離されて約1分差で負けたので、すごく悔しい思いをしました。その後で疲労骨折が判明したんです。