1時間近く正座に説教…超えた限界「もう嫌だ」 頼った父親、人生を変えた“強制命令”
23歳監督が「お前は使うから」でエースに…1学年下に“幻の強打者”
2年生を迎えると、忍耐も限度を超えた。「1年間は我慢してたんですけど。あー、もう嫌だなと思って逃げたんですよ僕。『洗濯しに行ってきます』って言って。最初は近くの駄菓子屋に友達と一緒に3人で駆け込みました。『もう終わったな……』と思いましたが、クビになるとかどうとかでなく、とにかく嫌でした。でも、いつまでも友達の所にもいられない」。1人はそのまま離脱。松沼氏はひとまず実家に帰るしかなかった。 しかし、父の正男さんは状況を理解した上で張り倒した。心を鬼にして「戻れ」と敢えて突き放した。「それがなかったら、もう自分でもどうしたらいいのか分からなかったですからね。親父に強制的に命令されて助かりました」。退部もやむなしの覚悟で寮へ引き返すと、マネジャーからもキャプテンからも何も言われなかった。「説教した方も悪かったと思ってたんじゃないかなぁ」と推察する。 2年から指揮官が交代した。東洋大で東都リーグ歴代最多の1部通算542勝を挙げることになるOBの高橋昭雄氏(旧姓は佐藤)で、当時23歳。「挨拶で『兄貴分として俺は頑張る』と仰ったんですけどね。兄貴分というより上級生みたいで、もう怖くて怖くて。監督は捕手出身のバッターだったので野手には厳しいんですが、投手にはそれ程でもない。僕はあまり怒られなかった。『お前は使うから』とワケわかんないことを言われました」。 高校では甲子園どころか、県大会でサヨナラ死球を与えての敗退。大学1年は下積みの日々。松沼氏が「ワケわかんない」と感じても不思議ではない。だが、青年監督は素質を見抜いていた。言葉通り抜擢すると、松沼氏はリーグ通算22勝のエースへと階段を駆け上がっていった。 大学の野球部は大所帯。そんな中で松沼氏が2年の頃、1学年下にひと際印象に残るバッターが存在した。「バットの運びが凄く良くてね。素晴らしいバッティングをしていたんだよ」。その選手の名は落合博満(元ロッテ、中日、巨人、日本ハム)。秋田工業高から入学していたのだが、途中で学校を離れた。松沼氏は1975年から社会人の東京ガスでプレーしたが、東芝府中の4番打者の活躍を知って喜んだ。「彼はいつの間にか、東芝府中で主力になってました」。 松沼氏は3年以降は春秋のリーグ戦4季連続で2位。優勝には、あと一歩届かずに終わった。東洋大の初優勝は4歳下の弟・雅之氏が活躍した1976年秋まで待たねばならなかった。「僕たちのチームの時に落合がいればなぁと考えちゃいましたね。優勝できたのにね」。後にプロで3度も三冠王となった“幻の強打者”に思いを馳せていた。
西村大輔 / Taisuke Nishimura