結婚相手の変遷にみる皇室の「幸せの定義」、やんごとなき人々は選ばれし人と結婚しなければならないのか?
■ 佳子さまのお相手選びがあちこちで報じられている背景 日本国憲法24条1項には、結婚についてこう規定されている。 【写真】小室圭さんと結婚し、ニューヨークに移住した秋篠宮家の長女・眞子さん 「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」 つまり、結婚したいと願う二人の合意さえあれば、それを邪魔するものなど法的には存在しないのだ。しかし現実はと言うと、仕事や年収から導き出された将来性について、まず双方の親からいろいろ意見が出る。さらに家柄だの家風だのと持ち出されることもあるだろう。 多くの場合、それはある種の通過儀礼であって、最終的には大抵、祝福されて幸せな結婚に至るわけであるが、やはり昔ながらの価値観に固執して、頑固に反対の立場をとる親御さんがいないわけではない。 今、秋篠宮ご夫妻の次女・佳子さまのお相手選びが、あちこちで報じられている。 真偽のほどはさておき、噂となったお相手は旧薩摩藩藩主島津家の傍流にあたる家柄の方で、旧大名家にして明治維新後には公爵に叙せられ、華族の中でもトップクラスにあった家系だ。 戦後、華族制度は廃止されたが、現在も旧華族の当主とその長男(20歳以上)が入会できる、「霞会館」という親睦団体が存在している。 皇室とのゆかりも深く、皇嗣の地位にある秋篠宮家の佳子さまのご結婚相手には、旧華族につながる家柄の方が良いと、周囲の関係者(特定するのは困難だが)らが考えたとしても不思議ではない。 なぜなら、秋篠宮さまが長女・眞子さんの結婚の折に、「(過去に)類例を見ない結婚」と称し、暗にもろ手を挙げて賛成した結婚ではなかったことをうかがわせていたからだ。次に佳子さまが結婚されるとしたら、周囲の誰もが納得し、国民からも祝福を受けるものでなくてはならないと、暗黙の了承事項が出来上がっているからなのだろう。
■ 天皇が「政略結婚」を受け入れなかった例も 近代以前、いわゆる「やんごとなき階層」にいる人々にとって、結婚は家同士の利益を最大化することを目的にしてきた。政略結婚とか閨閥(けいばつ)結婚と言われてきたゆえんである。 皇室の婚姻に絡んだ象徴的な歴史的事例はいくつもある。大河ドラマ「光る君へ」の中でも、平安時代の権力者の藤原道長が娘を入内させ、外孫となる皇子を担いで巨大な権力をわが物としたのは歴史の事実であり、それは宮中の中では当たり前の出来事であった。 気の毒なのは政略に利用される娘たちだが、家の利益につながるのであれば致し方ないと自分自身を納得させていたことだろう。 天皇が政略結婚を受け入れなかった例として、特筆されるのは江戸時代初期の二代将軍徳川秀忠の娘・和子(まさこ)と、当時の後水尾天皇との結婚ではないだろうか。 秀忠は徳川家と天皇家が結婚によって一つになることで、武家の棟梁たる「絶大な権力」と「天皇の権威」を手にし、その政治基盤を盤石なものにしたいと考えていたが、後水尾天皇は、そんなことに皇室を利用されたくないと、婚姻をのらりくらりと避けていた。 しかし、秀忠の攻勢は激しく、結局、結婚せざるを得なくなったものの、後水尾天皇と和子の仲は意外にも仲むつまじく、二人の間には、二男五女の子供たちが誕生している。 ところが内親王(娘)は立派に成長するのに、親王(男子)は不思議なことに全員早世してしまう。そこには徳川の血を引く皇子の誕生を許さないという思惑があったのではないかと言われている。 ちなみにこの二人の間に生まれた興子(おきこ)内親王は、後に859年ぶりの女帝となった明正天皇だ。