時代で変わる「機動性の変化」に泣く【4年式15cm榴弾砲】
かつてソ連のスターリンは、軍司令官たちを前にして「現代戦における大砲の威力は神にも等しい」と語ったと伝えられる。この言葉はソ連軍のみならず、世界の軍隊にも通用する「たとえ」といえよう。そこで、南方の島々やビルマの密林、中国の平原などでその「威光」を発揮して将兵に頼られた、日本陸軍の火砲に目を向けてみたい。 日本陸軍は、機動戦中心の現代の戦いに対応すべく、かなり早い時期から砲兵の機動性を重視していた。これは20世紀初頭の時点では、馬による牽引時の機動性のことであり、もっとも重要なのは火砲の運搬性の向上であった。しかも火砲の運搬性の向上は、砲座への進入や撤収などの際の操作性の向上にもつながる。 その後、牽引手段は馬から車両へと変化するが、たとえ牽引手段が変わっても、運搬性の向上で得られる利点は変わらないので、この方向性は継続されることになった。とはいえ、機械化牽引という点については、全軍の機械化も含めて、日本陸軍は列強にやや遅れをとっていたが。 かような背景により、それまでの38式15cm榴弾砲(りゅうだんほう)の後継として開発されたのが、1915年に制式化された4年式15cm榴弾砲である。大口径の榴弾砲ながら隔螺式(かくらしき)閉鎖機による分離薬嚢(やっきょう)方式の装填ではなく、垂直鎖栓式閉鎖機を備えており、装薬が可変ができる薬莢を用いる半固定弾を使用するため、隔螺式に比べて発射速度はやや速い。 38式15cm榴弾砲は、分解搬送を考えた設計ではなかったせいで運搬性が低かった。そこで4年式15cm榴弾砲では、当初から砲を砲身車と砲架車に分けて輸送できる設計としたことで、運搬性が大きく向上した。 しかしその一方で、列強の同級の榴弾砲はいずれも10000mを越える射距離を有していたが、4年式15cm榴弾砲のそれは制式化当初は約8000mしかなく、その後の発射薬の工夫や小改修によって約9500mまで射程を伸ばしたものの、結局、10000mには届かなかった。 正規の対砲兵戦では射距離の短さは致命的であり、「リーチの長さ」でかなわない場合、射距離の短いほうは「敵の懐」にもぐり込んで砲撃し、反対砲撃を受ける前に移動するという機動戦で戦わねばならない。4年式15cm榴弾砲の場合、確かに砲を馬で牽引していた時代の「迅速な機動性」こそ考慮されていたものの、それが車両牽引になってからの「迅速な機動性」よりも遅いのはやむを得なかった。
白石 光