【第44回日本SF大賞】人はなぜ人なのかーー長谷敏司『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』が問う人間性の根源
1年(2022年9月1日~2023年8月31日)の間に発表されたSF作品から選ぶ第44回日本SF大賞(日本SF作家クラブ主催)が2月23日に決定。長谷敏司『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』(早川書房)が受賞した。長谷は2015年に作品集『My Humanity』(ハヤカワ文庫JA)で第35回日本SF大賞を受賞しており今回が2度目。『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』は第54回星雲賞の日本長編部門も受賞しており、SF界の2つある大きな賞を制覇した格好だ。 人はなぜ人なのか。『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』は、そのような問いかけに対する答えを、ふたつの方向から探ろうとしたSF作品だ。ひとつが身体。ダンサーの護堂恒明は、コンテンポラリーダンスの新星として期待されていたが、バイクの事故で右足の膝から下を失い、ダンスをあきらめかける。 そこに知人から、AIを搭載したロボット義足を着けて踊ってみないかといった誘いが来る。恒明のダンスを記憶して再現することも可能なロボット義足なら、前のように踊れるかもしれない。そんな期待を抱きはじめた恒明に、コンテンポラリーダンスの第一人者として活躍していた父親の護堂森が、強烈にダメ出しをする。 「気持ち悪い動きだな」と、恒明の義足を着けてのダンスを見て森が放った言葉は、ハンディキャップを義手や義足で補いながら生活している人への侮辱に聞こえてしまうかもしれない。もっとも、『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』の中で語られるのは、まったく逆のことだ。 自分の感情を、肉体の隅々にまで伝え表現するのがダンサーだとしたら、義足を着けていたならもその義足を含めた身体全体で表現しなければならない。ロボットの義足がAIによって恒明のダンスを学習し、義足を着けていなかった時と同じようなダンスを再現したところで、筋肉と骨格で出来ていた生身の足と義足とでは、齟齬が生じてしまう。 恒明は義足にもしっかりと踊らせるような新しいダンスの探求を始める。さらに、ロボットといっしょに踊ることを目指す中で、人間のような主体性を持たないロボットとどのようにコミュニケーションをとりながら、コンテンポラリーダンスとして観て美しいものにしていくかといった模索をしていく。 人間と共生するロボットの開発は可能かを思索する展開は、過去に数多くのSF作品でも描かれてきたものだ。長谷自身も、人間以上の存在となった少女型のAIと人間の少年との関係を描く『BEATLESS』(KADOKAWA)で挑戦し、第34回日本SF大賞の候補作に挙げられた。『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』はそうした長谷のライフワーク的探求の延長線上にある作品だ。 ここでは、テクノロジーの可能性に留まらず、ダンスという行為を通して、身体における人間性(ヒューマニティ)とは何かを考えさせようとしている。そしてもうひとつ、『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』は、精神というものが人間性というものに働いている意味についても問いかけてくる。 ダンサーとしての復帰を目指して練習と仕事に励む恒明だったが、そこで父親の森が交通事故を起こし、同乗していた母親を死なせ、森自身にも認知症の症状が出始める。直前までしていたことを覚えていられない症状では、ダンサーとして構成に沿って踊ることは難しい。演出家としての仕事もできない。 年金と介護保険だけしか収入がない老父を、息子が働きながら介護する大変さが描かれたストーリーは、同じような課題に直面している多くの人たちの関心を誘う。加えて森の場合は、ダンサーとして積み重ねてきた経験や得てきた栄誉を、恒明のような肉体の欠損によって失うのではなく、記憶の衰退という義手や義足では補えない状況によって失っていく不安に苛まれることになる。 そんな森と最初は対立していた恒明だったが、瞬間の衝動しかなくなってしまっても踊ろうとする森の中に、残されていた人間性を見る展開が、衰えつつある心身を抱えた人を前向きな気持ちにさせ、介護に悩む家族にも相手を理解する大切さを伝える。 これからますますAIは発展し、膨大な学習データを元にして人間と見間違えるような情報を吐き出すようになっていくだろう。小説では、第170回芥川賞を受賞した九段理江『東京都同情塔』に生成AIが使われていたという話が評判になった。イラストや絵画でも、AIが生成したものを人間の手によるものと見分けることが難しくなってきている。過程がどうであれ、完成したものが良ければそれで良いのではといった意見が説得力を持ち始めている。 恒明がロボット義足を着けて挑み、体験を伝えることで義足を成長させ、その延長でロボットたちとステージで踊る段階までたどり着いたダンスの世界も、いずれロボットだけで観客を魅了するものを作り上げるかもしれない。そうなった時に人間性とはいったいどこに宿るのか。そもそも人間性とは必要なものなのか。浮かぶ疑問に対し、肉体というものの実在であり、思考という機能が答えをくれる展開に触れさせて、自分という存在がどう思い、どう動くかが大切なのだということに改めて気付かせる。そんな作品だ。 第44回日本SF大賞の候補には、宇宙開発が進んだ世界とコンピュータ技術が発達した世界という、ずれた2つの世界が重なり合った状況で出会う少年少女を描いた高野史緒『グラーフ・ツェッペリン あの夏の飛行船』(ハヤカワ文庫JA)、妹が殺してしまった父親の死体を、怪獣が暴れている東京湾に捨てに行こうとする表題作を含んだ久永実木彦『わたしたちの怪獣』(創元日本SF叢書)、死体を吸収する巨大人型物体が登場する表題作を含んだ斜線堂有紀『回樹』(早川書房)、死者の記憶にアクセス可能な技術が実現した近未来で事件捜査に臨む刑事が主人公の結城充考『アブソルート・コールド』(ハヤカワ書房)が挙がっていた。 パラレルワールドや不条理なシチュエーションへの適応、サイバーパンクといったSF的な思索とストーリーを楽しめる作品ばかり。どれが受賞しても不思議はなかったが、AIの台頭という時代にあって、それを鏡のようにして人間性というものを問い直してみた『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』に評価が集まり、日本SF大賞となったようだ。 ただ、一昨年の第42回でよしながふみ『大奥』が受賞したのを始め、漫画作品や映像作品が候補になったり、受賞したりすることもある。SFに強い版元の小説作品ではないところで、これこそが日本SF大賞に相応しいという作品が登場してくれば、ノミネート作品を挙げる日本SF作家クラブの面々にもきっと届くことだろう。 今回の第44回日本SF大賞では、長くSFの発展に貢献して来た4人の故人に功績賞が贈られた。評論家で作家としても活躍した石川喬司、SF作家で『鉄腕アトム』『宇宙戦艦ヤマト』といったアニメ作品にも携わった豊田有恒、『超人ロック』を半世紀以上にわたり描き続けた聖悠紀、そして『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』といったSF漫画の金字塔的作品を生み出し続けた松本零士(五十音順)。残した作品や評論が今の世界に与えた影響の大きさを改めて感じ取りたい。
タニグチリウイチ